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2019年 06月 09日
旧郷野小学校
広島県安芸高田市の近代建築

安芸高田市の中心部吉田地区から南西方向、長閑な田園地帯の一角に昭和10年に建てられた木造校舎が残されています。
この建物は安芸高田市立郷野小学校の校舎として平成31年の閉校まで80年以上に渡って使われました。
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木造2階建て下見板貼りの寄棟造。中央に玄関を設け、上部に三角破風を立上げます。当時の木造校舎の一般的な意匠ですが、玄関周りやファサードに凝った装飾が施されています。
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玄関周り詳細。ハーフティンバー風の破風、壁面はドイツ壁仕上げ。丸型の通気口がアクセントになっています。
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玄関内部の様子。
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この郷野小学校は平成31年3月で休校となりましたが、1年建った現在もその後の用途が定まらず、再生に向けて模索中のようです。
広島県内で戦前に建てられた木造校舎として希少な現存例で、意匠的にも優れたこの建物がどう活用されるか、気になるところです。
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正面玄関の他に、校舎の左右に入口が設けられています。
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校舎裏側からの眺め。
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by sunshine-works | 2019-06-09 11:54 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)
2019年 06月 02日
時報塔
東広島市の近代建築その6

東広島市の北部、長閑な田園地帯の一角にコンクリート造の小塔が立っています。
この塔は時を知らせる鐘楼として大正11年に建てられました。
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四角断面の鉄筋コンクリート造、高さは7,8メートル。上部に木造の屋根を懸けます。
石造風に仕上げた壁面には時に因んだスローガンが掲げられています。
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この鐘楼は志和地区の在郷軍人会が設置したもので、竣工時は当地出身のアメリカ在住者から寄付された鐘で時を告げていました。
時報機能は戦時中にサイレンに置き換えられ、現在も定時に時を告げています。
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この塔が建てられている一角は地区の中心とは言え周囲は田畑ばかり、やや離れて酒造会社があるだけの長閑な地域で決して人口密集地ではありません。
塔の設立に際してこの地区出身の在米移民者15名が鐘を寄贈したとありますが、この数字を見ると当時の広島県が如何に多くの海外移民を送り出していたかが伺えます。
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3面には時に纏わる標語を刻みます。文字の頭に付いている星印は塔を設置した在郷軍人会に因むもので、旧陸軍の五芒星と呼ばれる記章が刻まれています。
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三面に刻まれたスローガンの詳細。「時間節約」。
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「時ハ金」
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「定時慣行」
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by sunshine-works | 2019-06-02 10:56 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)
2019年 05月 26日
西条蔵元の煉瓦煙突
広島県東広島市の近代建築その5

清酒蔵元が集まる山陽本線西条駅南の一角は白壁土蔵造りの蔵が並ぶ風情ある町並みを形成していますが、この通りの景色を特徴付ける要素のもう一つが各蔵元毎に聳え立つ煉瓦煙突です。
明治期から大正期に相次いで建てられたこれらの煙突は西条清酒の発展を支えたモニュメントとして大切に残されています。
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西条の酒蔵通りには現在12本の煉瓦製の煙突が残されています。
四角断面に組んだイギリス積み煉瓦煙突の高さは凡そ15メートル~20メートル超、煉瓦の殆どが近隣の安芸津で焼かれたものと言われています。
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賀茂鶴酒造の煙突。広大な敷地には蔵毎に煙突が建てられています。
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煙突の形は上部がやや窄まった四角柱で頂部に蛇腹を設けます。多くの煙突はこの賀茂鶴酒造の煙突に見られるように四隅を鉄枠で補強しています。
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亀齢酒造には西条の煙突群の中で唯一の丸煙突が残っています。
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西条に現存する煉瓦煙突で最も高い福美人三号蔵煙突の高さは27メートル。
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西条の煉瓦煙突は精米を蒸す蒸気を得るための石炭ボイラーの排煙用に立てられたものです。
これらは石炭から他の燃料に移行する昭和後期になるとその役目を終えますが取り壊される事なく残され、自社の銘柄を掲げた看板塔として利用されています。
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西条の煉瓦煙突の中で唯一現用で使われている西條鶴酒造の煙突。
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by sunshine-works | 2019-05-26 11:31 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)
2019年 05月 19日
西条酒蔵通りの近代建築
広島県東広島市の近代建築その4

前回は昭和初期に建てられた旧醸造支場の建物を紹介しましたが、西条の酒蔵通りにはこれ以外にも明治~昭和初期に建てられた近代建築が数多く残されています。今回は各蔵元に現存するこれら建物、施設を紹介します。
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西条清酒の最大手となる賀茂鶴酒造。土蔵造り漆喰壁、腰周りに海鼠壁を廻らした大きな酒蔵が複数並びます。これらは明治期から大正期に建てられました。
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西条の酒蔵はこの賀茂鶴酒造以外の蔵元の多くに白漆喰、海鼠壁の仕様が使われており、町全体の景観が統一されています。
こちらは白牡丹酒造の酒蔵。明治期の建物と思われます。
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こちらは福美人酒造の蔵。大正期の築。
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亀齢酒造の蔵。
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漆喰海鼠壁以外にも板張りが施された蔵もあります。手前の木造建物は亀齢酒造の従業員寮として建てられたものです。
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幾つかの酒造会社には当時事務所として建てられた木造洋館が現存します。
こちらは賀茂鶴酒造の旧事務所建物。
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 木造2階建て下見板貼り。中央に三角破風の短い庇を張り出します。築年は昭和初期と思われます。
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隣に建つ小さな建物は研究室として建てられたものです。
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福美人酒造の入口脇に建つこの建物もかつての事務所です。築年:大正期。
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亀齢酒造の入口脇にも木造洋館が残されています。大正期に建てられたこの建物は応接室として使われていました。
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by sunshine-works | 2019-05-19 10:57 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)
2019年 05月 12日
旧広島県立醸造支場(酒泉館)
広島県東広島市の近代建築その3

安芸西条は古くから酒造りが盛んで、兵庫県灘、京都市伏見に次ぐ日本三番目の酒造地帯として知られます。
蔵元の多くは山陽本線西条駅南側の一角に集まり、石畳の街路に沿ってなまこ壁と漆喰の酒蔵や煉瓦煙突が並ぶ酒造りの町としての風情を醸しています。
この通りの中程、賀茂泉酒造の隣に古い木造洋館が残されています。
現在はカフェや土産物店として使われているこの建物は昭和3年に広島県の醸造試験場として建てられました。
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切妻屋根にドーマーを乗せた木造2階建て下見板貼り。玄関両脇の付柱を屋根まで通し正面中央に破風を立上げたモダンな洋風建築。
広島県の醸造技術向上を目的とする研究施設の本館として建てられたもので、1階を研究室、2階を事務主に充てていました。
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こちらは建物側面です。
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元実験室として使われていた館内。
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廊下を通って建物裏側へ抜けます。
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本館の裏手には精米施設が置かれていた部屋が繋がります。
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裏側の様子。左が精米所、右に鉄筋コンクリートの酒造所が並びます。
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by sunshine-works | 2019-05-12 12:28 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(2)
2019年 05月 05日
三永水源池堰堤
広島県東広島市の近代建築その2

東広島市の中心街から南へ程なく、住宅街のはずれに豊かに水を蓄えた人造湖が広がります。
この湖は昭和18年に呉市の水道ダムとして設置されました。
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市街地に山が迫る港湾都市の多くは水量に恵まれた河川が乏しく、安定した水源の確保が課題でした。
呉市も状況は同様で、当初は二河川に設置した水道ダム(軍用水道として竣工、その後一般にも供用)で対応しましたが、給水量は限界に近く、急増する人口に対して新たな水源が求められる事となります。
このような経緯から建設されたのがこの三永水源施設で、戦時の厳しい状況にも係わらず起工後僅か4年で竣工しています。
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重力式コンクリートの堰堤は堤長145メートル、堤高14メートル。最大貯水量は264万㎥で既存の本庄水源地の190万㎥を上回る大規模なものとなりました。
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広い通路が対岸まで繋がる堰堤上部。湖面側の欄干にはアーチを模った装飾が施されています。
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ダム湖側から眺めた堰堤。中央に取水設備を張り出します。
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by sunshine-works | 2019-05-05 11:55 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 28日
中国電力深山変電所
広島県東広島市の近代建築その1

東広島市の東部、山間いを流れる川の畔に古い石造の建物が残されています。
現在は変電所として使われているこの建物は椋梨川水力発電所として大正7年に建てられました。
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この建物は中国電力の前身の一つ広島電燈が竣工させた水路式水力発電所で、2基の水車と発電機を備え、最大980kwを出力しました。
水路式発電所としては中規模のものとなりますが、大きな河川が少ない中国山地の水力発電所としては竣工当時最大規模のものでした。
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建物は石造平屋建て、木造の小屋組みに切妻屋根を載せます。中国電力管内に現存する戦前築の水力発電所の多くがRCの簡素な建屋なのに対し、この旧発電所本館は岩積みの重厚な建物でアーチ型を連ねたモダンな意匠を特徴とします。
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昭和44年にダム式の新椋梨川水力発電所竣工に伴い、この施設は変電所に転用され現在に至ります。内部の機器は外され、導水管も見当たりませんが、外観はほぼ当時の姿のまま。屋根のみが台風被害により当初の瓦葺きからスレート葺きに改修されています。
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by sunshine-works | 2019-04-28 11:31 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 21日
陸軍造兵廠忠海兵器製造所遺構
広島県竹原市の近代建築その4

明治中期、大久野島に設置された三つの砲台は豊予要塞の完成によって大正13年に役割を終えますが、程なくこの島には陸軍の機密兵器を製造する軍需工場が設置され、終戦まで軍の管轄化に置かれました。今回は昭和初期から終戦に至る時期に大久野島に存在した軍施設の遺構を紹介します
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この島に残るもう一つの戦争遺構は旧陸軍が秘密裏に設営した化学兵器工場で、国際法で使用を禁止されていた毒ガスの製造を行う国内唯一の施設でした。
これらは芸予要塞が廃止された6年後の昭和4年に設営が始められ、昭和20年の終戦まで各種毒ガスの研究、製造、貯蔵が行われました。
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島の東岸に残る火力発電所跡。最盛期にはディーゼル発電機8基が設置されていました。戦争後期には「ふ号兵器」、いわゆる風船爆弾の製造所としても使われました。
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内部は機材が撤去され吹き抜けの広大な空間が残ります。この島の軍事施設の多くは戦後暫らくは米軍の管理下に置かれ、朝鮮戦争の際には弾薬庫として使われていました。
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製造された毒ガスは島内数箇所に分散して貯蔵されました。その中で最大規模の貯蔵施設となるのがこの長浦貯蔵庫跡です。
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壁面には戦後米軍によって焼却処分された際のこげ跡が残っています。
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こちらはイペリットガスを貯蔵した三軒家貯蔵庫跡。アーチトンネルの奥にタンクを据えた台座が残されています。
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島内には露天の貯蔵施設跡も各所に残っています。
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この形式の露天貯蔵施設は前回紹介した砲台施設跡の幾つかにも設けられていました。
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毒ガスの研究・開発を行った建物も残されています。
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本土との間の通信に使われた施設跡。
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基礎のコンクリートのみ残る施設。当時使われた便所跡と思われます。
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by sunshine-works | 2019-04-21 11:09 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 14日
芸予要塞大久野島砲台2
広島県竹原市の近代建築その3

大久野島には前回紹介した北部砲台、中部砲台の他に島の南部にも砲台がありました。
大三島との間の海峡を受け持つこの南部砲台には8基の砲台が設置されていましたが、現在は4基のみ残されています。
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この島には3箇所合計22基の砲が据えられ、大三島の南側を受け持つ愛媛県今治の小島砲台と対となって瀬戸内海を遮断する役割を担いましたが、本来は瀬戸内海への外敵侵入は入口で食い止めるべきで、当初は豊予海峡に砲台を据える案がありました。この計画は当時の主力火砲の射程の制約で見送られますが、その後長射程の砲が実用化された事で大正末から昭和初期にかけて豊予海峡砲台が実現されます。これによって芸予要塞は不要のものとなり、この島は軍事施設としての勤めを一旦は終える事となります。
昭和に入ってからのこの島のその後については次回紹介致します。
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他の砲台にもあった煉瓦貼りの地下兵舎跡。半分埋もれた状態で残っています。
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周辺の林の中には何らかの施設跡と思われる構造物が残っています。
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島内には三つの砲台の他にも芸予要塞関連施設の幾つかが残されています。まずは島の中部、西岸近くに設置された弾薬庫跡。
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島の南北の海峡に面した位置には、それぞれ一基の探照灯(サーチライト)が設けられていました。こちらは南部砲台近くに設置された探照灯施設跡です。
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島の高台の中腹に残るコンクリート製の構造物。雨水を溜めた貯水タンク跡です。
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島の西岸には当時築かれた石造の桟橋が残されています。
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by sunshine-works | 2019-04-14 20:53 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)
2019年 04月 07日
芸予要塞大久野島砲台1
広島県竹原市の近代建築その2

竹原市の沖合いに浮かぶ周囲4キロ程の小さな島に明治期に築かれた砲台跡が残されています。
この島には当時全国の要所に設置された沿岸砲台の一つ芸予要塞大久野島砲台の遺構が良好な状態で保たれており、石積みや煉瓦造の砲座や兵営跡を百年以上を経た今日に伝えています。
今回と次回の2回に分けてこの大久野島に残る砲台跡を紹介します。
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この大久野島は以前紹介した芸予要塞来島砲台と対を成す砲台で、来島砲台は愛媛県今治から大三島南岸までを射程とし、この大久野島砲台が大三島北岸から広島県沿岸までを射程に治めます。
この二つの砲台で四国今治から広島県竹原の間に防衛ラインを敷き、瀬戸内海深部への外敵の侵入を阻む為に設置されたのが芸予要塞で、北部を担うこの大久野島砲台は明治30年から明治34年にかけて設置されました。
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この大久野島には北部、中部、南部の3箇所に砲台が設置されました。
この北部砲台は大久野最多8基を備えた砲台で、12CM加濃砲と24CM加濃砲が据えられていました
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一段上がった位置に据えられた砲座。石積みの擁壁、中央には砲を支えた鉄筋が環状に並んでいます。
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砲座と砲座の間に石積みと煉瓦の構造物が連なります。
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砲台跡に並ぶコンクリートの台座。これらは第二次世界大戦中にこの島が再び重用された際の遺構です。この事項については後掲する記事を参照願います。
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通路に沿って石積みの砲側庫が並びます。
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隣の砲台。擁壁には煉瓦が用いられています。
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北部砲台から坂道を進んで程なく、中部砲台に至ります。この中部砲台には主力となる六門の28センチ榴弾砲が設置されました。
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煉瓦積みの兵舎跡。
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円形の砲座跡。ここにも砲を固定した鉄筋が残されています。
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この砲台にも後年にタンクを据えた台座が残されています。
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道沿いに砲座や砲側庫が連なります。
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by sunshine-works | 2019-04-07 12:31 | 近代建築 広島県 | Trackback | Comments(0)