2024年 08月 11日
旧余田村役場庁舎
山口県柳井市の近代建築その1

柳井市の西部、光市と田布施町に接する市境の一帯は、昭和27年に柳井市として発足した町村の一つ、余田村が存在した地域となります。この余田村の中心部だった一角に、かつての役場庁舎が残されています。現在は柳井市の出張所として使われているこの建物は昭和11年に建てられました。
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木造2階建て下見板張り。建屋左右を手前に張り出して上部に切妻破風を構え、中央上部にも同じく切妻の破風を立ち上げます。
左右の破風や軒裏は茶色の柱を表に出したハーフティンバー風に仕上げ、各窓の周りや建物隅枠、腰板部分にも同色の柱材を用いてアクセントとします。
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大きな三角破風を張り出す車寄せの庇。破風の妻面や軒周りに飾りは無く、支える柱もストレートな角柱で極めてシンプルな造りです。
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余田村は戦後の昭和28年に周辺町村合併によって柳井市となります。この庁舎は市の出張所として引き継がれますが、その後老朽化により取り壊しが議論されます。この際には住民側の要望によって村のシンボルとなっていた庁舎の保存が選択されましたが、現在は出張所の看板が残るものの実際の出張所は他の施設に移っており、物置の様に使われています。
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建物側面にも小さな入り口があります。
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正面中央部の眺め。バランス良く並ぶ四つの三角形が建物の意匠性を高めます。
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建物側面から裏側の眺めです。
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# by sunshine-works | 2024-08-11 12:08 | 近代建築 山口県 | Trackback | Comments(0)
2024年 08月 04日
旧伊藤博文邸
山口県光市の近代建築

光市の中心街から北東方向、田畑が広がる長閑な風景の一角に、初代総理大臣を務めた伊藤博文公を記念する公園が置かれています。
伊藤博文の生家や産湯に使った井戸、二体の銅像や伊藤公に纏わる文物を展示する記念館等が設置されているこの敷地の中央に、伊藤博文自らが設計した洋館が保存されています。この建物は伊藤家の高祖の法要を行う目的で明治43年に建てられました。
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木造二階建て、寄棟屋根に桟瓦葺き、壁面はモルタル仕上げ。車寄せの玄関ポーチに半切妻の庇、正面中央上部に三角破風を掲げます。ルネッサンス様式を基調とする当時の木造洋館に良く見られる意匠で、全体に装飾は控えめながらも優美な姿に仕上げています。
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庇を支える六本のギリシア風円柱。

この洋館が建てられた目的は、伊藤家の遠祖、林淡路守通起の三百周忌に一族が会する法要所としてのもので、法要を終えた後は図書館としての用途が想定されていました。
伊藤博文はこの建物の原設計案を作った後に中国へ渡り、完成を見る事なく滞在先のハルビンで急逝してしまいますが、建物は予定通り明治43年に竣工、法要も無事行われます。
法要を終えた後の建物は、当初予定していた図書館への転用は行われず、県の管理によって維持された後に地元自治体に払い下げられ、資料館として公開されていました。現在は隣に建てられた新しい資料館に展示品が移され、竣工時の姿に修復された姿で展示されています。


正面入り口から館内へ。階段室を挟んで洋間が並びます。
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階段柱には伊藤家の紋、藤の模様が刻まれています。
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階段を上った先、板張りのホールを挟んで、片側に洋室が一間、反対側に畳敷きの和室が三間配置されています。
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これらの和室は法要が行われた際に控えの間として使われたと思われます。


三部屋ある和室の内一部屋は廊下を介さず直接洋間と繋がる構造で、畳の先にカーペット敷きの洋間が覗く変わった眺め。
双方を行き来する際に履物はどうしていたのか気になります。
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この二階の洋間が一番大きな部屋で、行事に使う為の部屋として造られました。
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再び外へ出て、建物側面から裏手側を眺めます。
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この建物は居住目的で作られたものでは無い為に、和室と洋室の他には便所があるのみで、厨房や浴室等の区画がありません。これらは後方に繋げられていた別棟のものを使っていた様ですが、現在は撤去されています。

※公園内に保存されている伊藤博文公の生家。ここで六歳まで過ごした後に萩へ移り、松下村塾へ入塾、その後幕末から明治維新の大きな流れの中で重要な役割を果たしていきます。
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# by sunshine-works | 2024-08-04 11:49 | 近代建築 山口県 | Trackback | Comments(0)
2024年 07月 28日
大谷溜池堰堤
山口県下松市の近代建築

山陽本線下松駅の東方、駅前から続く住宅街を抜けて小高い丘陵地を登ります。
山道を進んで程なく、開けた谷間に石積みの堰堤が見えてきます。
大谷溜池堰堤は昭和13年に竣工しました。
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表面に花崗岩の切石を貼った重力式粗石コンクリート式ダム。高さ27メートル、長さ59メートルの堰堤で貯水量14万㎥を蓄えます。
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ここから遊歩道を登って、天端部へ出ます。
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天端部の眺め。半円形の穴を穿った欄干の意匠が際立ちます。
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奥側は行き止まり



中央部に設置されている取水装置の操作室。この時代のダムで良く見かける半円形状の造りです。
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この溜池を作ったのは、後の日立財閥の創始者となる久原房之介が設立した土地開発会社「久原用地部」で、沿岸部の開墾地に農業用水を送る為のものでした。
久原房之介は大正期に下松の臨海部に大規模工業地帯を造成するプランを立ち上げ、周辺地区の土地買収を進めていきますが、第一次世界大戦の影響で事業計画は大幅に縮小されます。当初目指していた世界規模の工業都市設立は叶いませんでしたが、下松は日本汽船笠戸造船所(後に日立製作所笠戸工場)を中心とする工業都市に発展し、日立の企業城下町として繁栄を極めます。
久原房之介が工場用地として購入した沿岸部の土地(かつての塩田地帯)の過半は、規模縮小により農地としての再開発を余儀なくされ、これを支える為の施設としてこの溜池が設置されたようです。



農業用ダムとして設置された大谷溜池は、戦後に日立製作所へ所有が移り、市内にある笠戸工場や周辺の同社関連施設を対象とした水道ダムの用途に使われます。
この用途もその後に役目を終え、現在は調整池として余生を送っています。
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戦前に竣工した近代ダムの中で、農業用の灌漑ダムとして造られたものは僅か8基で、その中でこの大谷溜池堰堤は堤高25メートルを超える大規模なものとして希少な現存例となります。また、農業ダムの設置者が国や自治体ではなく、民間企業であることも(現在も所有者は日立製作所)他に例を見ません。
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# by sunshine-works | 2024-07-28 11:16 | 近代建築 山口県 | Trackback | Comments(0)
2024年 07月 21日
大津島の旧海軍遺構2
山口県周南市の近代建築その6

前回に続いて大津島に残る旧海軍の施設を紹介します。
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旧魚雷整備工場だった小学校跡から北へ進んで程なく、前回紹介した魚雷見張所のある鎧山の山裾に、一本のトンネルが掘られています。
このトンネルは魚雷整備工場と沖合に設置された発射試験場を結ぶ通路として開削されたものです。
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93式酸素魚雷の発射試験場として整備された大津島ですが、完成5年後の昭和19年、水中特攻兵器「回天」の訓練基地として使用される事となります。
回天搭乗員の訓練基地としての用途変更に際して敷地内には新たに訓練生の宿舎が建てられ、既存の魚雷発射場や整備工場は回天の仕様に合わせた改修を加えますが、整備工場から発射試験場までの回天の移送は、それまでの海岸線に添って敷かれた軌条では対応出来ず、新たな運搬路が必要となりました。このために掘られたのが馬蹄形断面の長さ約250メートル、幅3メートル程のトンネルで、回天は路面に敷かれたレールの上をトロッコに乗せて運ばれて行きました。
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中程迄進むと左手に短いトンネルが分岐し、海岸への出口が開けられています。
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海岸に開けられた出口。ここは訓練時に空襲に見舞われた際に沖合の支援船へ連絡を行う為のものでした。


この出口から岩場を進むと、沖合に浮かぶコンクリートの構造物が見えてきます。
これは昭和14年に完成した魚雷発射試験場の遺構で、後には回天の発着所として使用されました。
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トンネルに戻って出口方向へ進みます。
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回天は93式酸素魚雷を元に造られた一人乗りの潜水艇で、母艦や基地から発進して敵艦に体当たり攻撃する特攻兵器として開発されました。
一艇で大型艦を撃沈する強力な威力があり、戦局を転換させる期待を込めて「回天」と命名されたこの人間魚雷は、戦争末期に潜水艦を母艦に実戦投入されて幾つかの戦果を挙げた他、本土決戦に備えて各地の基地に秘匿されていました。
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出口の先に再び先程の魚雷発射試験場が現れます。

桟橋の先に設置されたコンクリート造の構造物。船で運んだケーソンを沈め、その上に建屋を建てたもの。
現在は手前側の壁や屋根が取り除かれ、柱だけが残った状態です。
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建物奥側には指揮所として使われた区画が残っています。
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床面には魚雷を海面に降ろす穴が開けられています。
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上記の開口部は魚雷の大きさに合わせたもので、回天の訓練に使われた際には新たに設置されたクレーンを使って後方の海面に吊り降ろしていました。
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支援船や回天が舫われた桟橋跡。
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トンネル出口を眺めます。
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# by sunshine-works | 2024-07-21 12:35 | 近代建築 山口県 | Trackback | Comments(2)