1 2007年 08月 30日
神戸灘区の近代建築その3 国道2号線に沿ってさらに西へ歩を進めます。灘区のほぼ真ん中、大石川の交わる辺りに銀行が見えてきます。この建物は当初三和銀行の支店として建てられ、その後大正相互銀行の建物として最近まで使用されました。昭和11年築。設計者不詳。 ![]() 明治期から全国に建てられた銀行建築は時代を経るにつれそのスタイルも変化していきます。巨大な列柱を前面に並べ彫像やオーナメントを廻らせる典型的な銀行建築様式も昭和になると装飾要素が徐々に少なくなり、重厚で威圧的なイメージが薄まっていきます。昭和11年に建てられたこの建物もデザイン的にかなり表現を抑えた造りとなっていますが要所要所には従来様式の名残りが見られ、薄味ながらも旧来のスタイルを残しています。 ![]() ![]() 銀行の象徴としてオーダー柱を備えていますが突出が少なく、壁の一部分のような印象です。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() エントランスは前面中央に1箇所。 ![]() ![]() 1階窓の面格子です。捻り加減が一風変わっています。 ![]() 東側からの眺め ![]() ![]() 西側から。中央に煙突が見えます。 ![]() 昭和10年代前半は実質的には戦前建築の最終期(統制により軍事施設以外の大規模建造物の建設が禁止されます)であり、戦後再開された銀行建築は機能・実用優先の味気ないデザインが主流になっていきますのでこの建物は銀行が銀行然としていた時代の最後の姿かもしれません。 ![]() 残念ながら平成19年6月でこの支店は統合され廃店となってしまいました。新聞報道によると取り壊して売却されるそうです。神戸市内で最後の戦前築の銀行店舗だったこの建物、再生する手法はないものでしょうか。 ![]() ▲
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| 2007-08-30 19:03
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2007年 08月 26日
神戸灘区の近代建築その2 JR六甲道駅から西へ進んで程なく、住宅街の中にRC3階建の大きな建物が見えてきます。 薄荷(ハッカ)製造会社である鈴木薄荷株式会社が事務所及び工場施設として使用しているこの建物は昭和初期に造られたものと言われています。設計施工データの詳細は不明ですが戦前の工場事務所のスタイルを伝える神戸市では数少ない現役施設です。 ![]() 鈴木薄荷株式会社はかって鈴木財閥とも呼ばれた鈴木商店の一部門が独立したものです。昭和初期の恐慌で経営破綻するまでの短い間でしたが鈴木商店は有名財閥に伍する一大グループを形成していました。神戸製鋼や播磨造船、テイジン等日本を代表する大企業も鈴木商店の系列企業のひとつでした。 ![]() 余分な装飾を極力省き機能優先で造られている為でしょうか、一見すると然程古い建物には見えません。しかし細部のディテールには昭和初期の意匠が見てとれます。 ![]() ![]() ![]() この建物を印象付けている大きく長い庇。角の丸み加減がこの時代ならではの雰囲気を出しています。 ![]() ![]() ![]() ![]() 正面入口は一段高い位置にあります。あっさりしたデザインです。 ![]() ![]() 搬出入口が前面道路に面して設置されています。 ![]() 裏側の景色。こちら側はいかにも工場施設らしい造りです。複雑に巡らされた大小の配管類が建物に取り込まれていく様には独特の美しさがあります。 ![]() 戦時中はまだ周囲の住宅も少なく、大きな建物は目だったようです。当時の写真には全体を黒っぽく迷彩塗装を施したこの建物の姿が残っています。(つい最近までその名残があったそうです) ![]() 鈴木薄荷株式会社がこの建物を使用したのは同社社史によれば昭和22年からとの事。それ以前の家主はわかりませんでした。同じように工場を兼ねた施設だったと思われます。 ![]() 工場施設には戦前からの古い建物が現役で使われている例が比較的多く見られます。業種業態にも拠るのでしょうが機械設備さえ更新すれば躯体である建物は「入れ物」としての用を成せば足り、住居や商業施設ほどには不具合が生じない事も理由のひとつかもしれません。 ![]() ▲
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| 2007-08-26 22:44
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2007年 08月 22日
神戸灘区の近代建築その1 近代建築Watch 今回から神戸市灘区編です。 中央区と東灘区の間に立地する灘区は商業地区である中央区、住宅街と工業地区である東灘区それぞれの色合いを持ちながら更に六甲山麓に広がる避暑地・リゾート地帯も区域に含んでいます。灘区の近代建築はこのような地域条件を反映したバラエティ豊かな内容となります。東灘区とは一味違った個性豊かな建築を紹介して行きます。 灘区の近代建築、一回目はモダンな銭湯を紹介します。 ![]() JR六甲道駅から程近く、マンションや住宅の並ぶ中に一風変わった銭湯が建っています。看板や幟から浴場であることがわかりますが何もなければとても銭湯には見えない建物です。昭和7年築。設計施工データは不明。 ![]() ![]() モダン建築と銭湯の取り合わせはミスマッチな様に思えますが実際にはさほど違和感はありません。唐破風造りの従来の銭湯にしても周囲の町屋から見ればかなり異質な建築物なはずです。それに比べればむしろ町の風景に調和しているのかもしれません。 ![]() ![]() 元々は温泉ではなく普通の銭湯でした。平成12年にリニューアルした際に源泉を掘り当てたそうです。 ![]() 温泉なのですが銭湯と同じ料金で入浴できます(大人380円)。露天風呂やサウナ(別料金が必要です)も付属していて内容充実、値段以上に堪能できます。 ![]() 失われていく建築物の代表ともいえるのが銭湯です。かってはどの町でも目立つ存在でした。ライフスタイルの変化と言ってしまえばその通りでしょうが文化としての銭湯が消え去ってしまうのは何とも残念ですし独特な建築様式が見られなくなるのも寂しいものです。残り少なくなっていく町の銭湯には是非とも頑張ってもらいたいと思います。 ![]() ▲
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| 2007-08-22 21:49
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2007年 08月 18日
神戸東灘区の近代建築その10 関西の事業家が競って豪邸を建てた旧住吉村は現在も閑静な高級住宅街としてその佇まいを残しています。しかし開発から100年近い年月を経る中で多くの邸宅が建て替えらてしまいました。それでも建築当初の姿を留めている建物も少なからず残っています。今回紹介する旧乾新兵衛邸は当地に現存する邸宅の中でも規模や内外装のすばらしさに於いて随一と言える建物です。 昭和11年築。設計 渡辺節 ![]() 乾新治(後に新兵衛を襲名)は昭和初期に乾汽船社長を務めた人物です。先代の乾新兵衛が創業した乾汽船の2代目として裕福な環境に育ち、この地に当時最高レベルの邸宅を建てました。設計者の渡辺節はダイビルや綿業会館で有名ですが個人宅の設計はあまり多くありません。交友関係にあった縁で渡辺節に設計依頼をしたようです。 ![]() 中央に張出部分を設け1階左に和室、右に吹き抜けのホールを配した造りとなっています。 中央張り出し部分が建物の印象を強く特徴的付けています。 ![]() ![]() ![]() 緑豊かな前庭。季節の木々が目を楽しませます。 ![]() ![]() ![]() 正面各部詳細 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 車寄せから玄関までを結ぶ回廊。建物を見渡せるようにあえて距離を長く取っているそうです。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 来客用玄関に貼られている中東風のタイル飾り。 ![]() ![]() 東面には大きな明り取り窓が設けられています。 ![]() ![]() ![]() 西面。こちら側にはかって和館が建っていました。 ![]() 室内はチーク材を随所に使用した贅沢な造りです。階段手摺のカーブ部分は継合わせではなく1本の原木からの削り出しとの事。 ![]() ![]() ![]() 室内各所のすばらしい装飾 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 乾新治から乾豊彦へ当主が代わった後も乾家の邸宅として使われてきましたが平成5年、乾豊彦が死去した際に相続対策として国に物納されてしまいました。今後の行方について明確な結論が出ていない何とも気になる状況に置かれています。現在はその存続を図るべく市民団体により保存運動が続けられています。 旧室谷邸のように貴重な建物を取り壊してしまう愚が繰り返されないことを祈るばかりです。 ![]() *神戸東灘区の近代建築巡りはひとまず今回で終了、次回からは灘区を巡ります。 ▲
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| 2007-08-18 19:40
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2007年 08月 08日
神戸東灘区の近代建築その9 東灘区の山の手、旧住吉村や御影町の高級住宅街についてはこれまで紹介してきましたが、阪神電鉄沿いの深江も戦前に開発された住宅地として知られています。この地区は別名を深江文化村と呼ばれ、多くの文化人が居住していました。残念ながら当時建てられた文化村の建物は今では4棟を残すのみとなってしまいました。 この深江地区に隣接した海辺の一角にW.M.ヴォーリズ設計の住宅が現存しています。大日本紡績(旧尼崎紡績、現在のユニチカ)の社長を務めた小寺源吾の別邸だった建物です。 ![]() 小寺源吾は住吉村に自邸がありました。この深江の家は海辺の別荘・別邸として使用されていたようです。 ![]() ![]() この地にヴォーリズの設計した建物があることは知りませんでした。こちらのブログでこの建物の事を知り訪ねてみました。(ノン様ありがとうございました) 深江文化村の設計にはヴォーリズの弟子、吉村清太郎が係わっていますのでヴォーリズ自身の建築があっても不思議のない場所柄なのですが以外にも文献やWeb上でこの建物の存在は触れられていませんでした。 ![]() ![]() ![]() 細部のディティールです。ヴォーリズらしさが随所に見られます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 1階正面のテラス。いかにも別荘らしい造りです。 ![]() ![]() ![]() この建物に特徴的なのが1階の各窓に取り付けられた美しい飾り格子です。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 裏側の窓の格子。 ![]() 裏側および勝手口 ![]() ![]() 戦後当地に酒造工場が造られた際に敷地ごとこの建物が移管されたようです。現在はこの酒造会社の貴賓館として使われています。 歴史的価値のある建物を会社の迎賓館、来客施設として利用している例は他にもよく見られます。時代に裏付けられた風格と気品を備えた建物はもてなしの場として相応しい使われ方だと思います。 ![]() ▲
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| 2007-08-08 23:41
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2007年 08月 04日
神戸東灘区の近代建築その8 東灘区住吉本町、旧住吉村時代には観音林と呼ばれていた地区は当時の著名な関西財界人が居を構えた高級住宅街でした。大会社の社長、会長宅が並ぶこの地の一角にW.M.ボーリズが手がけた小寺敬一邸が建っています。 残念ながら小寺敬一邸は現住している私邸で非公開建物なのですが、この小寺敬一邸の南側、斜面に沿って一段下の敷地に建っているのが今回紹介する旧小寺敬三邸です。 ![]() ![]() ![]() 小寺敬一氏は岐阜県出身の実業家小寺成蔵氏の息子で関西学院大学の商学部教授を務めた人です。小寺敬三はこの小寺敬一の息子にあたります。 ![]() 奥に偶然写っているのが小寺敬一邸です。 ![]() 二つの小寺邸をヴォーリズが設計したのは関西学院大学との縁なのでしょうか。ちなみに六甲山に建てた小寺敬一の山荘と東灘区深江にある小寺源吾(小寺成蔵の娘婿)の別邸もヴォーリズの設計です。 *これらについては別途紹介したいと思います ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 小寺敬一邸に比べると小さな建物ですが(小寺敬一邸は非常に大きな建物です)、ヴォーリズ建築の特徴をよく表した建物です。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 現在は輸入家具のショールームとして使われています。内部を拝見させていただきました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 2階の窓から屋根瓦を写しました。 ![]() 全国に1600棟も建てられたといわれるヴォーリズ建築ですが、この建物のように商業施設として再利用されている例も幾つかあります。特徴的なスパニッシュデザインの建物とスペイン家具の取り合わせはまさにベストマッチング、良い活用方法だと思います。 ![]() ▲
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| 2007-08-04 16:31
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