2024年 02月 04日
龍谷大学大宮学舎1
京都市下京区の近代建築その7

前回紹介した旧村井銀行七条支店から七条通りを西へ。堀川通りの交差点を渡ると、北側に西本願寺の広い敷地が広がります。
この西本願寺の境内に接する七条通りに沿った一角には龍谷大学のキャンパスが置かれており、中央に建つ本館を始め重要文化財を含む歴史ある建物や構造物が現存しています。今回と次回は明治12年に建てられたこれらの建物を紹介します。
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龍谷大学は江戸時代初期に開かれた西本願寺の学寮を起源とする古い歴史を持ち、明治初期には仏教以外の科目を開いて後の大学令発布によって大学となる基礎を築きます。
大宮学舎と呼ばれるこのキャンパスは明治4年に開設された同校最古の校地で、8年後の明治12年に現存する4棟の建物が建てられます。
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入口に構える石造の門柱。現在の龍谷大学の前身となる大教校の一連の建物が竣工した明治12年に設置されたものです。
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正門の裏手に建てられた煉瓦造の門衛所。こちらも明治12年の築。
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門衛所の斜め西、木造2階建ての校舎が細長く伸びます。南黌と呼ばれているこの建物は北側に向き合って建つ北黌とほぼ同じ造りで、当初は寮として建てられました。
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庇の上にバルコニーを設けた中央の入口。他の窓も合わせて開口部はファンライトを備えたアーチ型で統一されています。
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建物西端には本館と結ぶ渡り廊下を覆う木造の屋根が設置されています。パージボードが軒を飾るこの屋根も明治12年のものです。
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東端に戻って東面と裏側を廻ります。
妻面に設けられた車寄せにはアーチが支える切妻庇を張り出します。
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建物裏側にあたる南面の眺め。表面とほぼ同一の造りとなっています。
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中庭を挟んで向き合って建つ北黌。
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南黌と北黌は規模も外観も殆ど同じですが、南黌との違いはアーチ区画の奥手に玄関が設けられているこの部分で、向き合う南黌ではバルコニーを乗せた車寄せ玄関が置かれた位置に該当します。
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南黌と北黌は当初は寮として建てられましたが、その後に教室や研究室に改装されています。
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北黌の東側の眺め。南黌と同様の車寄せを構えます。
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裏側にあたる北面に廻ります。
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奥に見えるのが講堂として建てられた現在の本館。次回はこの建物を紹介します。


by sunshine-works | 2024-02-04 11:10 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(2)
Commented by 清勝せいしょう at 2024-04-11 00:03 x
母校の龍谷大学大宮学舎にようこそお越しくださいました。私は、昭和48年から52年までこのキャンパスで青春時代を過ごしました。現在70歳となりました。
ところで正門の向かいに
https://www.aij.or.jp/jpn/design/2020/data/5_award_004.pdf
これが今の東黌ですが、明治時代は、普通教校と呼ばれてました。そしてこのキャンパスから、

1887年(明治20年)、普通教校学生らによって『反省会雑誌』が創刊されました。これは、明治政府の廃仏政策や廃仏毀釈の運動からようやくたちなおりつつあった仏教界が直面した新たな危機への対応の現れで、キリスト教の拡大を危惧してのことでした。
明治の始め、本願寺は海外にも進出するほど進歩的でしたが、最も先鋭的であった本学普通教校の学生と教員が中心となり、キリスト教の拡大を意識し、禁酒・禁煙を行い普段の行いも正すという進徳をめざした改革運動を組織します。これが「反省会」で、その機関誌として『反省会雑誌』(のちに『反省雑誌』と改題)が作られました。
創刊9年後には本拠を東京に移し、一時はその英文版も発行されました。『反省会雑誌』創刊12年後の1899年(明治32年)には、『中央公論』と改名し、現在まで継続されています。
創刊号は今も、大宮図書館に保管されています。この図書館も文学歴史の宝庫と言われるぐらいのとんでもない図書館ですよ。また、ご来館ください。
今の文学部学生諸君でも知らない人がいるぐらい、大昔のお話です。失礼しました。



Commented by sunshine-works at 2024-04-14 11:37
> 清勝せいしょうさん
コメント有難う御座います。
龍谷大学を始め、明治以降に西本願寺の関連組織が多くの近代建築を建てて行った背景には積極的な仏教復興運動が関連していた事が垣間見れて興味深いですね。4月14日の投稿に大宮図書館や旧顕道会館の写真を挙げましたので是非ご覧ください。


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