2024年 10月 13日
佐川橋
高知県四万十町の近代建築その3

四万十町の北東、国道439号線の狭い山道を進んだ先に、かつて森林鉄道の橋梁として架けられた鉄筋コンクリート橋が残されています。通称めがね橋として親しまれている佐川橋は昭和14年に架けられました。
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梼原川水系払川を渡る橋長82メートルの三連アーチ。のどかな谷間の景色を頭上高くアーチが跨いで行きます。
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高知県では県東北部の魚梁瀬森林鉄道が広く知られていますが、西北部の四万十川流域も林業が栄えた地域で、この一帯にも幾つもの森林鉄道が敷かれていました。
この佐川橋を通っていたのは大正林道と呼ばれた路線で、大正町田野々から梼原川に沿って北方向を結んでいました。
昭和初期に最初の区間が開通した大正林道は、その後延伸や支線の追加を重ね、昭和14年にはこの橋の北に位置する佐川山方面へ路線を伸ばします。この佐川橋はこの延伸時に設置されたもので、美しい三連アーチの橋は大正林道で最大の構築物となりました。
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この佐川橋の竣工年については昭和19年とするものと昭和14年とするものの二つがあります。
昭和19年とする説には、梼原川下流に設置する都賀ダムによる路線水没に対処する為、電力側が設置したとの説明があります(現地の案内看板にもこの記載があります)。
都賀ダムは昭和15年に起工して昭和19年に完成していますが、大正林道の延伸区間の開通は昭和14年とありますので、延伸工事の時点で既に都賀ダムの計画は公になっていたと思えます。これを考慮すると事前に水没が確定している箇所に敢えて路線を敷く事は考え辛く、延伸工事当初から浸潤線を避けて架けられたとする方が理に叶っていると思えます。
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全国各地の林業を支えた森林鉄道は、道路整備が進み自動車が普及するにつれてその数を減じ、林業自体の衰退も加わって昭和中期に相次いで廃止されて行きます。この大正林道は高知県最後の森林鉄道として運行を継続しますが、昭和42年に廃線となり、その後路線跡は生活道路として活用されています。
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橋上の眺め。森林鉄道の路線幅に合わせて橋幅は約2メートルと狭い造りです。
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# by sunshine-works | 2024-10-13 11:30 | 近代建築 高知県 | Trackback | Comments(0)
2024年 10月 06日
大正橋
高知県四万十町の近代建築その2

予土線土佐大正駅の北西、梼原川が四万十川と交わる地点のやや手前に、朱色に塗られたトラス橋が架かります。
橋長138m橋幅4.6メートル、径間長45メートルのワーレントラス三基が連なるこの大正橋は昭和3年に竣工しました。
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市街地を抜けた道路が梼原川を越えて対岸に渡ります。
現在は車両の通行が止められ、人道橋として残されているこの大正橋は、国道381号線の基となった街道が渡っていた橋で、それまで頼っていた渡し舟や木橋に代わる永久橋として架けられました。
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高知県南部の山深いこの地域は古くから林業が営まれていた地で、旧大正町はその拠点として栄えました。
木材の集積地だった旧大正町ではそれまで主に舟や筏で木材の搬送を行っていましたが、大正後期に窪川から大正町を経て愛媛県宇和島を結ぶ街道計画が立ち上り、新たに陸路での搬送路が整備される事となります。
これに合わせて必要となったのが梼原川を渡る橋梁で、普及を始めた自動車の通行が可能な近代橋として起工され、街道の開通からやや遅れた昭和3年に竣工します。
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この時代のトラスでは一般的なピン結合部が見えます。
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橋の脇には後年に歩道橋が添えられています。
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西詰めの親柱です。
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河原に降りて鉄筋コンクリートの橋脚部を捉えます。
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橋梁技術が発展した大正末期になると、このような山間部にも次々と橋梁が渡されて行きます。橋によって川を渡り谷を越えて結ばれた街道は、それまで交通不便だった地域を流通網に繋げ、地方経済発展の支えとなりました。
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# by sunshine-works | 2024-10-06 11:47 | 近代建築 高知県 | Trackback | Comments(0)
2024年 09月 29日
佐賀発電所家地川取水堰
高知県四万十町の近代建築その1

高知県北西部の津野町付近に発し、南流を続けた四万十川は窪川の市街地を抜けた先で向きを変え、四万十町と黒潮町の境近くで一旦大きく南に蛇行し、再び西へと向かいます。
この屈曲部を越えた先の川岸の一角に発電用水を採り入れる為の大きなコンクリート構造物が設置されています。
佐賀発電所家地川取水堰は昭和12年に竣工しました。
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予土線家地川駅の西方、四万十川沿いの河川公園の隣に一連の施設が並びます。堰堤長113メートル、堤高8メートル、対岸との間を4基の可動堰と1基の固定堰で塞き止め、水位を調整して左岸の取水口から発電用水を取り込みます。用水はここから南東へ約7キロメートル離れた佐賀水力発電所へ送られ、最大17,000キロワットの電力を得ます。
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四万十川の流れを仕切る4基の可動ゲート。堰堤高は約8メートルとダムとしての要件(堰高15メートル以上)を満たしていませんが、総貯水量は90万立米と規模に比較して大きなもので、最盛時にはここを通過する四万十川の水量の過半が分水されて佐賀発電所へ送られていました。
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堰の裏面、上流側からの眺めです。
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堰の脇には鉄筋コンクリートの連絡橋が架けられています。この橋の上からゲートの構造物を眺めながら対岸へ渡ります。
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画面中央左手、川岸の一角に取水口の水門が見えます。


こちらは取水口の内側の眺めです。
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連絡橋は堰と同年の竣工。銘板に昭和12年と記されています。
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この取水堰から送水された用水が行き付く佐賀水力発電所の建屋。
この発電所が建てられた経緯は、日中戦争がはじまり戦時体制が深まる中での電力増強で、電力は遠く愛媛県まで運ばれて軍需工場の動力として使われました。
このような巨大な取水堰を造り、四万十川の水量の過半を抜き出す一連の大工事は、国策事業としての色合いの濃いものでした。
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# by sunshine-works | 2024-09-29 11:30 | 近代建築 高知県 | Trackback | Comments(0)
2024年 09月 22日
四万十川橋
高知県四万十市の近代建築

四万十市の中心部、土佐中村の市街地の西側に四万十川の広い流れを渡る8連のトラス橋が架かります。
赤鉄橋の名で長く町のランドマークとして親しまれている四万十川橋は大正15年に竣工しました。
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四万十川の広い川幅を8基のワーレントラスと6基の鉄筋コンクリート製プレートガーダー桁が渡ります。
竣工時の橋長435メートルは道路橋として当時四国最長、連続トラスの長大道路橋としては四国初の施工例となりました。
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四万十川下流のこの地点は、広い川幅と氾濫を繰り返す激しい流れにより橋を架ける事が困難で、東西方向の往来は渡し舟に頼る不便を長らく強いられていました。
時代が進んで大正期を迎え物流が増大する中で、県南西部と県都高知市を結ぶ幹線道を分断するこの不便を解消したのが近代土木技術の進歩で、当時実用化が成されたコンクリート橋脚と鋼製トラスの組み合わせによってそれまで不可能だった500メートル級の架橋が実現されます。
播磨造船所が施工を担当し大正13年3月に起工、これだけの大規模橋梁が僅か2年程の工期で大正15年6月に竣工しています。
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8基のワーレントラス桁の径間長は約54メートルで、当時としては最大級の長さ。
氾濫危険の高い河川では洪水対策として橋の径間を長く取る必要がありますが、技術が未発達だった時代には長大桁の製造には限界がありました。この橋が架けられた大正後期になって漸く50メートルを超えるトラス桁の製造が可能となり、それまで設置困難だった箇所への架橋が実現されていきます。
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この四万十川橋は過去に三度の改修が行われました。最初は完成10年後に行われた6連の鉄筋コンクリート製プレートガーダ桁の増設で、河川改修によって拡幅された川幅に合わせて延長されました。二番目の改修は昭和21年に発生した南海大地震による被災からの修復で、損傷した橋脚の再建と落橋した6基のトラスのうち4基を復元、2基を新造して昭和23年に復旧を終えます。
三番目に行われたのが昭和43年に行われた橋の側面に歩道橋を附加する工事で、交通量の増大への対応として人車の分離を行いました。
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四万十川橋が架けられた当時、鉄道橋へのコンクリート橋脚の使用は幹線を中心に始まっていましたが、道路橋に於いてはまだ少数に留まっていました。長大トラスを支える為に頑丈なコンクリート橋脚を用いたこの四万十川橋は、四国の道路橋の中でも最初期の導入事例と推測されます。
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橋の側面に架けられた歩道を進みながら、橋の上部構造を探索します。
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橋梁技術の発達はそれまで困難と思われていた地点に効率的に橋を渡す事を可能とし、各地の大きな河川には次々と連続アーチ橋が架けられて行きます。広い川幅に長々とトラス桁が渡る光景は今では一般的なものですが、この四万十川橋梁はその先駆けの一つとして貴重な存在となっています。
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# by sunshine-works | 2024-09-22 11:29 | 近代建築 高知県 | Trackback | Comments(0)