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2017年 07月 22日
別子銅山の産業遺産-東平地区1
愛媛県新居浜市の近代建築その7

マイントピア別子から県道を南へ。山道をひたすら進んだ先、別子銅山東平(とうなる)地区へ至ります。
ここにも明治中期から昭和初期に築かれた鉱山施設の数々が残されており、マイントピア別子東平ゾーンとして公開されています。
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この東平地区は前2回にて紹介した端出場地区が開発される前の拠点で、明治35年の第三通洞開削を契機に昭和初期にかけて様々な鉱山施設が建てられました。
この東平は標高750メートル、冬場には積雪のある山深い地区ですが、周囲に社宅が築かれ、学校、病院、劇場、商店等が備わる鉱山町の暮らしが閉山までの70年に亘って営まれていました。


明治27年に着工し明治35年に完成した第三通洞。鉱脈に向けて水平に1.8km掘られた運搬坑道で鉱材の搬出や配水、換気に用いられました。その後に設置された端出場水力発電所へ用水を送る役目も担いました。
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11年後に開通した第四通洞に比べると間口が狭く、抗口も簡素な造り。美しい装飾を施した鉄扉が当時のまま残されています。
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坑内電車に積まれた鉱石は通洞から貯鉱庫へ運ばれます。この途中の起伏を抜ける箇所にはマンブと呼ばれるトンネルが掘られました。
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抗口、内壁共に切石貼り。レールは外され、当時使われていた鉱山機械が展示されています。
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こちらは火薬庫として使われたトンネル。
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一段高い場所に建てられた煉瓦造の施設。明治37年に変電所として建てられました。
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漆喰が塗られた内壁にアーチ窓が並びます。変電装置は撤去され、居住区画の名残りだけが残されています。
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by sunshine-works | 2017-07-22 17:52 | 近代建築 愛媛県 | Trackback | Comments(0)
2017年 07月 08日
別子銅山の産業遺産-端出場地区1
愛媛県新居浜市の近代建築その6

旧山根精錬所から県道を南へ。山道を進んで程なく、別子銅山最後の採鉱拠点となった端出場地区に至ります。鉱山跡を利用した観光施設、マイントピア別子として公開されているこの場所には明治期から大正期に設置された多くの施設が現存しています。
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この端出場地区がその後発展する契機となった第四通洞。明治43年起工、5年後の大正4年に開通。採鉱地点から鉱石を搬出する坑道で水平方向に4.5km掘られています。
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イギリス積みに煉瓦アーチを組んだ抗口。笠石や帯石、付け柱を備えた重厚な意匠。扁額の文字は住友家当主の揮毫です。
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内部はトロッコの軌道が敷かれ、電力や通風、配水のダクトが通されました。
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マイントピア別子の敷地に隣接して古い煉瓦建物が残されています。この建物は端出場水力発電所として建てられました。
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鉱山機械の動力が機力から電力へ移行する明治中期、別子銅山では自前の発電所を設けていましたが、増大する電力需要を賄う為、明治45年に大規模な発電施設を竣工させます。銅山川から取水し第三通洞を経て導水した用水による水路式水力発電所で、当時日本一の出力3000kWと有効落差560mを誇りました。
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煉瓦造平屋建て、切妻屋根の巨大な建物。
発電施設はその後最大4800kWに増強され、周辺地域のみならず沖合い20キロメートルの四阪島精錬所まで送られました。この時に敷設された海底ケーブルは当時世界一の長さとなりました。
昭和48年まで使用された後閉鎖されましたが、内部の設備はそのまま残されています。
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by sunshine-works | 2017-07-08 16:20 | 近代建築 愛媛県 | Trackback | Comments(0)
2012年 12月 06日
神子畑選鉱場跡
朝来の近代建築その8

前回は生野から移築され、神子畑選鉱場の施設として使われた旧ムーセ邸を紹介しましたが、この神子畑の地にはかつて中世に遡る歴史を持つ鉱山が開かれていました。
この神子畑鉱山は明治初期に近代鉱山として再開発されますが、同じ鉱脈で繋がる明延や生野に比してその鉱床の規模は少さく、大正後期には鉱脈の枯渇によって閉山となってしまいます。
以降この地には約5キロ北西に位置する明延鉱山の選鉱場が置かれる事となり、60年以上に亘って稼働を続ける中で山肌一面に巨大な選鉱施設が築かれていきます。
朝来の近代建築巡りの続きは、前回に引き続き鉱業遺産の一つとして残る神子畑選鉱場跡を紹介します。
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選鉱場の事務所施設として使われた旧ムーセ邸の背後、加盛山の南斜面を巨大なコンクリートの構造物が覆います。
昭和62年の明延鉱山の閉山から20年余、この敷地内には長らく閉山当時のままの建屋が廃墟と化した状態で放置されていました。
これらの殆どは、ようやく最近になって取り除かれ、現在はコンクリートや石で築かれた建物の基礎部分、幾つかの構造物、そして鉱石や資材を運ぶ為に使われた運搬軌道の跡が僅かに残されています。
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山の斜面に沿って建屋の基礎部分が階段状に積み上がります。22段に及ぶこの基礎の上に木造や鉄骨で建てられた様々な施設の建屋が立ち並んでいました。
幅110メートル、高低差75メートルの斜面一面は選鉱や鉱石の粉砕を行う主要施設の他に、電力施設、水道設備、鉄工所、木工所、インクラインの管制施設、鉱石の積み下ろし場、事務所、従業員の福利施設他、種々様々な施設で埋め尽くされ、その景観は山間に忽然と現れた人工都市を思わせるものがありました。
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敷地の最下段、地平に据えられたコンクリート製の巨大な構造物。
これは選鉱作業の最終段階に使われたシックナーと呼ばれる施設で、水に混ざった微細な鉱石を沈殿作用によって取り出すためのものです。
殆どの構造物が取り除かれた神子畑選鉱場に於いて当時のまま原型を保つ数少ない遺構となります。
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高低差のある施設内へ物資を搬送する為、斜面にはインクライン(鋼索軌道)が設置されていました。現在は急斜面を登る錆付いたレールのみが残されています。
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明延鉱山との物資輸送には、専用のトロッコ列車、明延鉱山鉄道(明神電車)が敷かれていました。1円電車と呼ばれて沿線住民の足としても使われたこの軌道も閉山と共に廃止されます。
敷地内には当時使われていたトロッコ列車が復元展示されています。
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明治期以降の日本各地の主要な鉱山には、この神子畑選鉱場と同様に山肌を覆い尽くす規模の鉱山施設が続々と建てられて行きました。
これらの鉱山の殆どは昭和末期から平成初期に閉山を余儀なくされ、その多くは今も往時の姿を留めた状態で残されています。
この神子畑選鉱場施設は、隆盛を極めた往時の日本の鉱業技術を偲ぶ産業遺産として貴重な資料として残ります。
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by sunshine-works | 2012-12-06 21:05 | 近代建築 兵庫県 | Trackback(1) | Comments(0)
2012年 11月 10日
生野鉱山専用軌道敷跡(生野トロッコ道)
朝来の近代建築その6

丹波と但馬の国境に発し播州平野を潤して播磨灘へ注ぐ市川は、その上流域で生野鉱山精錬施設の麓を沿い、生野の中心部へ向います。この市川が裏手を流れる口銀谷地区の川沿いには、かつて敷かれていた鉱石運搬用の鉄道軌道跡が残されています。
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河川沿いの公園となっているこの地点には、路盤を支える石積が当時の姿で残されています。
4つのアーチを備えた石組には、中世に築かれ、後に生野代官所が置かれた生野城跡の石垣が用いられました。
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明治初年に鉱山近代化を図った生野鉱山は、本所(精錬施設)とを結ぶ専用道を市川に沿って築きます。当初は鉱石や資材の搬送を人力に頼っていましたが、その後は鉄道馬車を経て大正8年に電気機関車が導入されます。
この運搬軌道は大正9年に本所から生野の市街地までの区間が延長され、鉱山から精錬所を経て積出し駅の生野駅までが一本に結ばれます。この口銀谷に姿を留める軌道敷跡はこの時に敷かれたものです。
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運行されていたのはアメリカ製の電気機関車。レール幅50センチ程のトロッコ列車でした。市川にそって敷かれた路線はこの先で川を離れ、中心街を通って生野駅構内の支庫まで乗り入れていました。
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トロッコ道のこの区間には、同時期に施工されたと思われるコンクリート構造物が残されています。
トロッコ道を跨ぎ、市川を渡って対岸の姫宮神社とを結ぶ姫宮橋。鉄筋コンクリート製の近代橋ですが、神社の参道として昭和11年に和風の意匠で架けられています。
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トロッコ軌道を跨ぎ越します。
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こちらの詳しい築年は不明ですが、神社横手を走る用水路を町の中心へ渡す水道橋が架けられています。コンクリートの劣化が進んでいますが、現役で使われているようです。
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水道管の先は神社の横手に伸びています。現在はこのように鉄管が通っていますが、元々は水路で渡されていたと思われます。
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鉱山と共に栄えた生野の町には、鉱山の歴史を伝える様々な遺構が残ります。
これらの中でも、このトロッコ道と川沿いに築かれた構造物は、当時の優れた土木技術を伝える資料として貴重な歴史遺産となっています。
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by sunshine-works | 2012-11-10 17:44 | 近代建築 兵庫県 | Trackback | Comments(0)
2012年 11月 06日
生野鉱山関連の産業遺産2
朝来の近代建築その5

生野鉱山の近代化に着手したフランス人技師団は、採鉱施設の近代化と併せて当時先端の精錬法を生野に伝えます。
明治9年、生野鉱山から西方に2キロ程離れた大盛の地に、近代的な洋式精錬所が操業を開始します。
今回は三菱マテリアル生野事業所内に残る明治期の精錬所建物を紹介します。
(*これらの施設は普段は非公開です。見学会に参加した際の写真を掲載しました。)
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昭和48年に採鉱を終えた生野鉱山ですが、この三菱マテリアル生野事業所は日本唯一となる錫の精錬施設に転じ、リサイクル錫を原料として現在も操業を続けています。
広い敷地内には数多くの建物が並んでいますが、その多くは明治期に建てられたもので、改装・改修を施されながら現役施設として使われています。
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この事業所で最も大きな建物となる旧混汞所。現在は事務所として使われています。
砕いた鉱石と水銀を混ぜて加熱し銀を取り出す、一連の工場施設の中核を為す施設でした。
煉瓦造2階建てですが、当初は1階建で建てられ、後年に2階部分を増床しています。
現在は外壁にモルタルが塗られていて見えませんが、1階部分はフランス積、2階の増築部はイギリス積の変則的な構造です。竣工時にフランス人技師が手掛けた1階は当然ながらフランス積が使われ、後年の増築時には当時主流となっていたイギリス積を採り入れたものと思われます。
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階段の上にも大きな建物が見えます。搗鉱所と呼ばれたこの建物は、鉱石を粉砕する施設として使われました。明治7年築。
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搗鉱所を繋ぐ階段の石組。アーチ部分は煉瓦で塞がれています。
ここから先は見学コース外との事で残念ながら進めませんでした。
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正門を入って最初に見えてくる建物です。手前に見えるのが中門休憩所、その奥に重なるように建つのはオリバーフィルター室(砕いた鉱石を濾し分ける施設)と呼ばれた建物です。
この2棟は竣工時の建物ではなく、明治中頃に建てられています。
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外壁の一部はモルタルが剥離し、イギリス積煉瓦の下地が見えています。
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各地の鉱山が閉山を余儀なくされる中、このような古い精錬所の殆どは取り壊されてしまいました。
三菱マテリアル生野事業所に現存するこれらの建物は、現役で使われている明治期の精錬所建物として極めて貴重な例であり、日本の近代鉱業の基礎を築いた生野の歴史を今に伝える優れた産業遺産となっています。
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by sunshine-works | 2012-11-06 23:57 | 近代建築 兵庫県 | Trackback | Comments(0)
2012年 11月 02日
生野鉱山関連の産業遺産1
朝来の近代建築その4

岩美と並ぶ銀山として知られる生野鉱山の歴史は、平安期に遡るとも言われています。本格的に開発された室町時代以降は諸大名や幕府の財政を支え、明治以降は官営鉱山として近代日本の発展に多大な貢献を果たします。
その後三菱に払い下げられた後もおよそ80年に亘って主力鉱山として銀、銅、亜鉛その他を産出し、昭和48年の閉山まで日本を代表する鉱山としての地位を保ちました。
朝来の近代建築巡りは今回から3回に亘ってこの生野鉱山関連の近代化遺産を紹介します。
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長い歴史を持つ生野鉱山は新たな鉱脈を求め時代と共に様々な箇所に坑口が開けられました。閉山時に主坑として使われていたこの金香瀬抗は明治5年に開削されたもので、西洋技術を導入して鉱山近代化が図られた最初期の構造物です。
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生野鉱山に近代採鉱技術を伝えたのは政府が明治初年にフランスから招いた技師団でした。
コアニエとムーセを中心とした技師団によって、この坑口をはじめ坑内施設や付帯設備の殆ど全てが西洋式の規格に更新されていきます。
近代化を果たした生野鉱山は、「マザーマイン」としてその後の日本の鉱山技術を先導する役割を担っていきます。
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観光施設として公開されている坑道の一部。江戸期から昭和までの各時代の坑道を見る事が出来ます。
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現在は観光施設となっている旧生野鉱山の入口には、ここから西方へ2キロ程離れた場所にある生野支庁(選鉱~精錬を経て地金に加工する工場)に設置されていた正門柱が移設されています。
花崗岩を積み上げた重厚な造りのこの門柱も明治初期に設置されたもので、昭和52年に当地に移されています。
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門柱は大小それぞれ2本ずつ。内側の大きな門柱の間が大門、その両脇に脇門が設置されていました。門柱に飾られた菊の御紋は明治の一時期に生野鉱山が宮内省の直轄だった名残です。
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山合いに開けた鉱山町生野は、近代化された生野鉱山の躍進とともに隆盛を極め、充実したインフラ・生活環境の下で豊かな文化を育みました。
現存する生野鉱山や関連施設の遺構は、日本の貨幣基盤を支えた産業遺産として極めて重要な存在です。
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by sunshine-works | 2012-11-02 20:36 | 近代建築 兵庫県 | Trackback | Comments(2)