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2016年 03月 11日
旧海軍機関学校大講堂
京都府舞鶴市の近代建築その15

自衛隊桟橋と道を隔てた向い側に海上自衛隊舞鶴地方総監部の広い敷地が広がります。
ここはかつて旧海軍機関学校が置かれていた場所で、当時の建物施設の多くが今も残されています。
今回はこれらの建物の中で唯一公開されている旧大講堂を紹介します。
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横須賀に設立された海軍機関学校は関東大震災で消失し江田島に仮設されていましたが、移転先として舞鶴が選ばれます。
空地となっていた旧海兵団の敷地を利用して昭和3年から校舎や講堂の建設が始まり、昭和8年にこの大講堂が竣工します。
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鉄骨造平屋建、壁面はスクラッチタイル貼り。基礎や石段、玄関廻りには御影石が使われています。
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玄関ポーチからの眺め。奥に並ぶ旧機関学校の建物を伺います。
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玄関には舞鶴鎮守府の初代長官だった東郷平八郎の胸像が飾られています。
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現在は海軍記念館として公開され、展示室の資料や講堂内部を参観する事が出来ます。
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by sunshine-works | 2016-03-11 13:27 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 26日
舞鶴旧鎮守府倉庫施設4
京都府舞鶴市の近代建築その13

前回に引き続き舞鶴赤レンガパークの倉庫群を紹介します。
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敷地の南側、道路に面して建てられた大正7年築の5号館。創建時は兵器廠の倉庫として、その後は水雷庫として使われました。
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他の倉庫に比べて高さと幅が一回り以上大きな建物です。
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大正7年の築ですが、舞鶴の他の大正期の倉庫と異なり意匠の簡略が無く、明治期の倉庫とほぼ同じ外観です。
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こちらは裏側。
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こちらが表側。どちらの妻面も同じ意匠になっています。
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イベントホールとして利用されている内部。狭い間隔で煉瓦柱が並びます。
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2号館の正面側景色。戦後は長く市役所の分庁舎として使われましたが、その後市制資料館に改装されました。観光施設として再生された舞鶴赤レンガパークの元となった建物です。
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隣接する市役所を挟んで北側に位置する1号館。
平成5年に煉瓦博物館として再生されたこの建物は兵器廠の水雷庫として明治36年に建てられました。
現存する12棟の中で唯一鉄骨煉瓦構造の倉庫です。
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側面から裏側の様子。
鉄骨造の煉瓦建物は築例が少なく、現存例としてはこの建物が最古級とされています。
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by sunshine-works | 2016-02-26 05:12 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 19日
舞鶴旧鎮守府倉庫施設3
京都府舞鶴市の近代建築その12

前回紹介した4棟の倉庫群の東隣には観光施設として整備された4棟の倉庫が並びます。
ここには明治35年に3棟、大正7年に1棟が建てられました。
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ここに並ぶ4棟と市役所の北隣に建つ1棟は旧軍時代に兵器庫として使われていました。
戦後は民間倉庫として使われる一方で市役所分館や赤レンガ博物館に転用が進められ、現在はすべての倉庫が舞鶴赤れんがパークとして展示施設や飲食物販店、イベントスペースに利用されています。
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最初に建てられた明治35年築の3棟。右手に見えるのが大正7年築の1棟。
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奥には前回紹介した旧需品庫の妻面が覘きます。
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平行に並ぶ明治35年築の倉庫。右が西端の4号館、左が中央の3号館。奥手は大正7年築の5号館です。
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同じ面を南から。
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こちらは3号館と2号館です。
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by sunshine-works | 2016-02-19 11:36 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 12日
舞鶴旧鎮守府倉庫施設2
京都府舞鶴市の近代建築その11

前回紹介した3棟の煉瓦倉庫群の東隣、文庫山の麓には4棟の倉庫が並びます。
ここには明治35年に3棟、大正8年に1棟の煉瓦倉庫が建てられました。
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敷地内の北側に明治期の倉庫が3棟、向かい合う位置に大正期の倉庫が1棟建てられています。これら4棟はどれも竣工時に需品庫の用途に充てられていました。
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倉庫に沿って遊歩道が敷かれています。これは当時東舞鶴駅付近から軍港間を結んでいた軍需鉄道の引込線跡を整備したものです。
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倉庫の先に艦艇が舫われた埠頭を望みます。
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正面側詳細。外観には手を加えられた跡が殆どありません。前面に並ぶ木製の電信柱や古びた表示板もそのまま残され、往時の趣が良く保たれています。
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大正8年築の倉庫。現在は海上自衛隊が使用しています。
前回紹介した中の一棟と同様に意匠が簡略化されています。
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こちらは明治35年築の倉庫の妻面。
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殆どの煉瓦は創建当時のまま。扉もそのまま残されています。
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by sunshine-works | 2016-02-12 15:05 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2016年 02月 05日
舞鶴旧鎮守府倉庫施設1

京都府舞鶴市の近代建築その10

明治34年に鎮守府が置かれ、昭和20年まで海軍の拠点として栄えた東舞鶴には各地に旧軍由来の施設、建物が数多く残されていますが、現在海上自衛隊が使用している旧軍港周辺には当時兵器や軍需品の収蔵に使われた12棟の煉瓦倉庫が現存しています。
今回より数回に亘って明治期から大正にかけて建てられたこれら煉瓦倉庫を紹介します。
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今回取り上げるのは自衛隊桟橋寄りに建つ3棟の倉庫。現在は海上自衛隊の倉庫として使われています。
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この場所には舞鶴最初の煉瓦倉庫となる2棟の被服倉庫が明治34年に建てられ、大正10年に1棟が建て増しされました。
3棟は煉瓦造切妻屋根の構造は共通ですが築年の違いで意匠が異なっており、西端に位置する大正期の倉庫は明治期のものに比べて凹凸が少なく全体に簡略さています。
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左が大正期、右が明治期の倉庫。
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中央と東側に建つ明治34年築の2棟。同時期に建てられた他の舞鶴の煉瓦倉庫や各地の軍需倉庫と共通した意匠です。
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3棟の倉庫は埠頭と道路の間に建てられており、接岸した艦艇を遮蔽する役割を果たします。
防備、防諜の上からもこの場所が選ばれたと思われます
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by sunshine-works | 2016-02-05 13:56 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 22日
舞鶴要塞 葦谷砲台
京都府舞鶴市の近代建築その8

前3回にて舞鶴湾西岸に配置された3つの砲台を取り上げましたが、今回は湾の東側に設置された砲台の一つ、葦谷砲台を紹介します。
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葦谷砲台は舞鶴湾の湾口部、国見山の頂上近くに明治32年に設置されました。
最も北に配置されたこの砲台は舞鶴湾に接近する敵艦隊に対して最初に砲門を開き、湾口の狭い水路に侵入した敵艦には対岸の砲台群と共同して挟撃する重要な役割を担います。備砲は舞鶴の各砲台の中で最大口径の28cm榴弾砲6門が据えられました。
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この砲台も他の砲台と同様に2砲一組で砲座が組まれ、それぞれに煉瓦の砲測庫や弾薬庫を備えます。
これらは山腹の手前から奥へ、さらに横手へと通路に沿って複雑に連なっています。
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奥に進んで隣の掩蔽へ。
舞鶴の各砲台はほぼ同時期に着工、完成していますが、構造物は必ずしも統一した規格とも言えず、各砲台毎に微妙に異なります。この葦谷砲台は他の砲台に見られる礎石の使用比率が少なく煉瓦が多用され、角にアールが付けられているのも他に無い特徴です。
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日露戦争の際に危惧されたロシア艦隊の日本本土来襲はありませんでしたが、日本船舶がロシア軍艦に襲撃される事件は実際に起こっており、日本海沿岸は緊迫した状況に置かれていました。
この脅威は日本海軍によるロシア太平洋艦隊の制圧とその後の日本海海戦の大勝により一掃されますが、逆の結果となっていた場合にはこの舞鶴湾が真っ先に攻撃目標とされていた筈で、効果の程はともかく備えとしては妥当なものだったと思えます。
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by sunshine-works | 2016-01-22 13:09 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 14日
舞鶴要塞 建部山砲台
京都府舞鶴市の近代建築その7

舞鶴湾西岸に設置された3つの砲台の中で最も湾の奥部に位置する建部山砲台。12cmカノン砲4門を備えるこの砲台は明治34年に完成しました。
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市街地の外れから山道を登って小一時間、標高313メートルの建部山山頂に到達します。周辺の木立の中に煉瓦造の弾薬庫が、その背後にコンクリート造の砲側庫と砲座跡が残されています。
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弾薬庫の入口周り詳細。
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各庫内は荒らされた様子も無く、良好な状態。壁の白色は煉瓦に漆喰を塗ったものです。
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弾薬庫の脇には砲座へ繋がる石段が積まれています。
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分厚くコンクリートで補強された弾薬庫。
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砲座跡。4門の備砲は2門を一組として2基の砲座に据えられていました。
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建部山砲台に配備されたカノン砲の最大射程は約7km。この位置からは舞鶴湾の外側には弾丸は届かず、砲口は上陸部隊の予想進路である由良川方向へ向けられていました。
この砲台は、舞鶴軍港に向けて進行する敵軍を迎え撃つ、正に最後の砦となるべきものでした。
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確かに、高所に据えられた大型砲が大きな脅威となる事は旅順攻防戦でも実証されましたが、この建部山砲台が砲門を開く場面は湾口の各砲台が壊滅し、日本艦隊も撃破されて制海権を失った状況であり、大挙押寄せる敵軍に対して僅か4門の砲は殆ど無力に思えます。一時の足止めを図るのが精一杯だったのではないでしょうか。
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by sunshine-works | 2016-01-14 11:30 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2016年 01月 07日
舞鶴要塞 金岬砲台
京都府舞鶴市の近代建築その6

舞鶴湾西岸に配置された3つの砲台の一つ、舞鶴要塞金岬砲台は前回紹介した槙山砲台の北方、金ヶ岬を見下ろす山中に明治33年に設置されました。
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崩れかけた獣道を草木を掻き分けひたすら進んだ先に一群の煉瓦構造物が見えてきます。舞鶴湾の入口を守るこの要塞には21cmと15cmのカノン砲各4門が備えられました。
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明治30年代初頭に相次いで設置された舞鶴湾岸の砲台の中で、この金岬砲台のみが昭和9年に廃止され、代わって沿岸沿いに2基の砲台が設置されます。
この金岬砲台に限らず舞鶴湾周辺に配備されていたのはどれも19世紀に開発された旧式砲で、砲力と防御力が格段に進化した大型艦艇と撃合うには全くの力不足でした。
どの道、圧倒的な火力と航空支援の元で行われる要地攻撃や上陸作戦に対して沿岸要塞が有効な戦力となる時代は終焉しており、もっと早い時期に見切りを付けるべきものでした。
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この金岬砲台も他の要塞と同様に分散して砲が据えられ、砲座毎に煉瓦とコンクリートの砲側庫を構えます。
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さらに奥へ進むと現れる半地下式の区画。弾薬庫と思われます。
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それぞれの掩蔽部の背後には砲座や指令所跡が、また周辺部には井戸や貯水槽らしき施設が残されています。
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by sunshine-works | 2016-01-07 11:07 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2015年 12月 29日
舞鶴要塞 槙山砲台
京都府舞鶴市の近代建築その5

日露の軍事的緊張が高まる明治30年代初頭、舞鶴では軍港整備と平行して多くの砲台が周辺部に設置されました。
舞鶴要塞と呼ばれた一連の施設は日露戦争終結後も舞鶴鎮守府防備の要として据置かれ、昭和20年の終戦までその任にありました。
これら砲台跡の多くは取り壊されること無く残され、戦後70年を経た今日も山中に朽ちかけた姿を留めています。
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舞鶴湾の西岸に設置された3基の砲台の一つ槙山砲台は明治33年に完成。舞鶴湾の入口、狭い水路を見下ろす山の頂上近くに設置され、28cm榴弾砲6門と15cm臼砲4門を装備していました。
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なだらかな山道に沿って並ぶ砲側庫。煉瓦を積んで一部をコンクリートで補強し上部に土を盛り上げた構造は、この時代各地に築かれた要塞施設に共通したものです。
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上部へ上る石段。裏側に据えられた砲座へ繋がる通路と推測されます。
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坂道沿いに間隔を空けて同様の砲側庫が数基並びます。
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この砲台の主砲として6基の28cm榴弾砲が予定されていましたが、設置が完了したのは砲台完成後8年を過ぎた明治41年で、既に日露戦争は終結していました。
尤も、旅順攻防戦に際して他の要塞から多くの備砲が戦地に送られた経緯を察すると、当初想定されたロシア艦隊来襲の可能性は薄いと判断し、特に問題とされなかったのかもしれません。
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入口の煉瓦やコンクリートの一部が剥がれていますが、内部は程よく状態を保っています。
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by sunshine-works | 2015-12-29 14:43 | 近代建築 京都府 | Trackback | Comments(0)
2013年 09月 25日
旧海軍米子航空基地掩体壕
鳥取県米子市の近代建築その8

中海に突き出した半島の突端、米子市と境港市に跨って米子空港の敷地が広がっています。
航空自衛隊美保基地と共用する米子空港は、旧海軍の航空隊基地がその前身となりますが、この空港周辺には旧軍時代に設けられた数基の掩体壕(航空機用の壕)が今も残されています。
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空港に面した道路脇に残る壕。現存する米子空港周辺の掩体壕の中では最も規模が大きく、また内部の様子が良く伺えます。
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掩体壕とは航空機を空襲から守る為に飛行場周辺に築かれた施設で、その多くは半地下式のコンクリート壕に土盛をしただけの簡易なものでした。
本土空襲が激しくなった戦争末期の旧軍の航空基地にはこのような壕が数多く造られますが、使われているコンクリートの厚さからすると爆弾の直撃に絶え得るものとは思えず、機体の隠蔽と銃撃や爆風からの保護が主な目的だったのでしょう。
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内部は奥が狭く、高さも奥側が低く造られています。
当時の軍用機は尾輪式だったので低い後ろ側から収容し、機首が手前側になります。
入口上部にはプロペラの高さギリギリに切り欠きが設けられています。
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暫らく進んだ集落の中程に残る壕。先ほどに比べると小型な壕です。
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奥行きも短く、入口も両翼が収まる形状となっていません。
この規模では機体全体(単発戦闘機で縦・横最大10メートル程)を格納するには足らず、機体の後ろ半分のみを収めて前部は土塁等で防護したものとも思われます。
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こちらは美保基地の中に残る数基の壕。
土盛りがそのまま残され、当時の状況が良くわかります。
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少し離れた場所の小ぶりな壕。
飛行機の壕ではなく、通信施設が収められていたようです。
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戦時中に各地の航空基地に築かれたこれらの壕の多くは農業倉庫や資材庫としてその後も使い続けられましたが、周辺の開発や老朽化を理由に大半が取り壊されてしまいました。
僅かに残されたこれら幾つかの壕跡が貴重な歴史を伝えています。
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by sunshine-works | 2013-09-25 18:03 | 近代建築 鳥取県 | Trackback | Comments(0)