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2012年 11月 26日
旧倉吉町水源地ポンプ室
鳥取県倉吉市の近代建築その3

倉吉の中心部から南西方向、静かな住宅街の外れに、旧倉吉町営水道の創設期に設置された施設が残されています。昭和7年築。
水源地から水を汲み上げる取水ポンプ室として平成2年まで使用されました。
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明治20年に日本で初めての近代水道が横浜に敷かれて以降、全国の主要都市に次々と水道が敷かれていきます。
大都市や条約によって開港した港湾都市を皮切りに、その後は各県の県庁所在地へと波及し、大正末年には全国の水道事業者は約100箇所を数える事となります。
昭和に入るとその流れは中小都市にも及び、昭和10年代にはその数は3倍に増大して行きます。
鳥取県の近代水道の歴史も、県都鳥取市が大正4年と最も早く、次いで米子町が大正14年。
県内3番目となる倉吉町の創設時の施設として現存するのが、このポンプ室となります。
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鉄筋コンクリート造平屋建、切妻屋根にスレート瓦葺。
腰周りはルスティカ積の石組、中央の玄関上部に三角破風を立上げ、その両側にパラペットを巡らせます。
その他にも玄関2階に設けたバルコニーやその上に飾られる石額、ファンライトを添えた各面のアーチ窓等々、豊かな装飾表現が随所に見られます。
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正面に掲げられた扁額。記されている「萬斛泉」とは、この水源地のある余戸谷に湧く泉の名称(尽きる事のない泉との意味です)で、古来より名水として知られていました。
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敷地を仕切る門扉・外壁・鉄柵。
当時の姿そのままで残されています。
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土手に面した裏側の景色です。
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鳥取で3番目の近代水道が敷かれた当時の倉吉町の人口は1万人に満たない数でした。
すでに水道が敷かれていた他の2都市に比べると遥に小さな自治体でしたが、この建物は県央の中心都市として栄えた倉吉の威信を示す、優れた近代土木遺産として伝わります。
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by sunshine-works | 2012-11-26 22:26 | 近代建築 鳥取県 | Trackback | Comments(2)
2012年 11月 22日
鍋島灯台
香川県坂出市の近代建築その10

岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ瀬戸大橋は、塩飽諸島の大小5つの島に跨って桁が架けられています。
この5島の一つ、最も坂出側に位置する与島の隣に並ぶ鍋島には、明治5年に点灯された石造灯台が現役施設として稼働しています。
イギリス人技師ブラントンが手掛けた一連の灯台の一つとなるこの鍋島灯台は、四国で最も古い歴史を持つ灯台です。
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明治元年から8年間の間に、北海道から九州までの全国各地に26の灯台を築いたブラントンの初期の作品となります。この26灯台は、規模や構造によって幾つかの類型に分けられますが、最も多くを占めるのがこの鍋島灯台に見られる形式のものです。
この形式の灯台は、ブラントンが日本で最初に手掛けた 樫野埼灯台や淡路島の江崎灯台を始め、高さ10~20メートルまでの中規模灯台に多く用いられました。
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与島から防波堤によって繋がる鍋島の小高い丘の上に、南東に向いて建てられています。灯台自体の高さは約10メートル、海面から30メートルの灯高を確保します。
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灯塔が据えられる1階付属室部分は円筒を半分に切った独特の形状。ブラントンの石造灯台の多くにこの特徴が受け継がれています。風や波飛沫を受ける正面側を円形として強度を確保する為の工夫と思われます。
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コンクリートが普及する以前の明治初期、灯台には様々な素材が用いられていましたが、この鍋島灯台は付属建物(これらの施設はその後四国村へ移されています)を含めて全て地元産の花崗岩を積んで建てられました。
近辺に多くの石材産地が控え、優れた石工を擁していた当地の利を活かしたこの石造灯台は、140年を経た今も当時の姿を保ちます。
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狭い螺旋階段を上って灯室内部へ。普段は立入禁止ですが、年に数回の公開日が設けられています。
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明治期に建てられ、今尚使われている灯台は全国に67基。鍋島灯台は7番目に古いものとなります。
これら黎明期の現存灯台は、近代国家の要件として欠かせない通商の安全確保に、明治政府が国家の威信をかけて臨んだ灯台事業の概要を知る資料として、極めて価値の高いものと言えます。
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by sunshine-works | 2012-11-22 22:13 | 近代建築 香川県 | Trackback | Comments(1)
2012年 11月 18日
中国電力早島変電所
岡山県早島町の近代建築その2

倉敷の地で発足した倉敷紡績は、その後順調に業績を伸ばし、全国に工場を展開するとともに、各地の紡績会社の吸収・合併を重ね、やがて日本を代表する紡績会社の一つとなります。
倉敷の東隣に位置する早島町で操業していた旧早島紡績もその後に倉紡に吸収された会社の一つで、倉紡早島工場を経て現在は系列会社の工場が置かれています。この工場の裏手の一角に、一棟の古い煉瓦建造物が建っています。
中国電力早島変電所の敷地内に残されたこの建物は、旧早島紡績の変電施設として建てられ、その後は倉紡早島工場に引き継がれました。大正7年築。
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小高い丘陵の麓、中学校の裏手に建つ煉瓦造2階建の建物です。
2階建ではありますが、大きな変電施設を収容する為に階高が高く取られ、更に屋上に巨大な架台が乗せられている事で、実際以上に大きな建物に写ります。
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南側からの眺めです。緩い勾配が付けられた陸屋根の上部に、コンクリート製の構造物が乗せられています。現在は使われていないようですが、高さのある土手の向こうへ電線を渡す架台として使われたものでしょうか。
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変電設備が敷地の西側に並びます。この煉瓦建物自体は現在電力施設としては使われていないと思われます。
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煉瓦の積方は一般的なイギリス積。煉瓦壁・木製の窓枠・更には一部のガラス窓が当時の姿そのままで残されています。
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繊維産業が各地に発展した岡山ですが、綿織物の生産は昭和10年代を境に減少に転じ、戦後も合成繊維に押されて衰退の道を辿ります。この過程で多くの工場建物が取り壊され、往時を偲ぶ建物は数少なくなってしまいました。
今なお残るこの変電所は、岡山の発展を支えた繊維産業の歴史を伝える遺構として貴重な建物です。
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by sunshine-works | 2012-11-18 23:53 | 近代建築 岡山県 | Trackback | Comments(4)
2012年 11月 14日
酒津取水樋門/排水樋門
岡山県倉敷市の近代建築その8

倉敷駅から北西方向へしばらく進むと、高梁川に沿って親水公園が置かれています。
この場所には、大正年間に行われた高梁川改修事業によって設置された取水樋門や排水樋門が現存し、今も現役で使われています。これらの施設は大正11年から翌12年にかけて築かれています。
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治水と利水を目的に行われた高梁川の改修事業の中で、最大の施設となったのが酒津に設けられたこれら一連の構築物です。
堰堤、取水樋門、配水池、配水樋門、水路で構成されるこの施設は、古くから争いの元となっていた水利権を解決するために、高梁川から一括して取水し、公平に分配する配水施設として設置されました。
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南樋門に並ぶ15連のアーチ形樋門。配水地域の規模に応じて門の数が異なり、それぞれに分けられた用水路で各地を繋ぎます。
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各樋門は表面を花崗岩で飾った鉄筋コンクリート造の荘重な造り。各用水路の側壁も石で仕上げられ、周辺の植栽と併せて施設全体が河畔に美しい景観を添えています。
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配水池側から眺めた樋門です。
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こちらは取水樋門の内側。
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土手の反対側に回って河畔の取水口へ。石貼7連の樋門が並んでいます。
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川中に築かれた取水堰。この堰で水勢を弱め、水深を嵩上げして樋門で取水します。
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明治以降に導入された欧米の進んだ土木技術は、様々な場面で人々の暮らしを大きく変えて行きます。
農業の近代化に於いて近代土木が果たした役割は非常に大きく、取り分け、農業水利は飛躍的な改善を遂げます。
この結果大正期の国土全体の耕地面積は江戸期の3倍以上にも増大し、近代国家を支える根幹を築いて行きます。
高梁川で行われた一連の水利事業の象徴とも言うべきこの施設は、農業近代化に資する優れた歴史遺産として極めて貴重なものです。
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by sunshine-works | 2012-11-14 20:25 | 近代建築 岡山県 | Trackback | Comments(0)
2012年 11月 10日
生野鉱山専用軌道敷跡(生野トロッコ道)
朝来の近代建築その6

丹波と但馬の国境に発し播州平野を潤して播磨灘へ注ぐ市川は、その上流域で生野鉱山精錬施設の麓を沿い、生野の中心部へ向います。この市川が裏手を流れる口銀谷地区の川沿いには、かつて敷かれていた鉱石運搬用の鉄道軌道跡が残されています。
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河川沿いの公園となっているこの地点には、路盤を支える石積が当時の姿で残されています。
4つのアーチを備えた石組には、中世に築かれ、後に生野代官所が置かれた生野城跡の石垣が用いられました。
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明治初年に鉱山近代化を図った生野鉱山は、本所(精錬施設)とを結ぶ専用道を市川に沿って築きます。当初は鉱石や資材の搬送を人力に頼っていましたが、その後は鉄道馬車を経て大正8年に電気機関車が導入されます。
この運搬軌道は大正9年に本所から生野の市街地までの区間が延長され、鉱山から精錬所を経て積出し駅の生野駅までが一本に結ばれます。この口銀谷に姿を留める軌道敷跡はこの時に敷かれたものです。
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運行されていたのはアメリカ製の電気機関車。レール幅50センチ程のトロッコ列車でした。市川にそって敷かれた路線はこの先で川を離れ、中心街を通って生野駅構内の支庫まで乗り入れていました。
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トロッコ道のこの区間には、同時期に施工されたと思われるコンクリート構造物が残されています。
トロッコ道を跨ぎ、市川を渡って対岸の姫宮神社とを結ぶ姫宮橋。鉄筋コンクリート製の近代橋ですが、神社の参道として昭和11年に和風の意匠で架けられています。
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トロッコ軌道を跨ぎ越します。
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こちらの詳しい築年は不明ですが、神社横手を走る用水路を町の中心へ渡す水道橋が架けられています。コンクリートの劣化が進んでいますが、現役で使われているようです。
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水道管の先は神社の横手に伸びています。現在はこのように鉄管が通っていますが、元々は水路で渡されていたと思われます。
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鉱山と共に栄えた生野の町には、鉱山の歴史を伝える様々な遺構が残ります。
これらの中でも、このトロッコ道と川沿いに築かれた構造物は、当時の優れた土木技術を伝える資料として貴重な歴史遺産となっています。
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by sunshine-works | 2012-11-10 17:44 | 近代建築 兵庫県 | Trackback | Comments(0)
2012年 11月 06日
生野鉱山関連の産業遺産2
朝来の近代建築その5

生野鉱山の近代化に着手したフランス人技師団は、採鉱施設の近代化と併せて当時先端の精錬法を生野に伝えます。
明治9年、生野鉱山から西方に2キロ程離れた大盛の地に、近代的な洋式精錬所が操業を開始します。
今回は三菱マテリアル生野事業所内に残る明治期の精錬所建物を紹介します。
(*これらの施設は普段は非公開です。見学会に参加した際の写真を掲載しました。)
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昭和48年に採鉱を終えた生野鉱山ですが、この三菱マテリアル生野事業所は日本唯一となる錫の精錬施設に転じ、リサイクル錫を原料として現在も操業を続けています。
広い敷地内には数多くの建物が並んでいますが、その多くは明治期に建てられたもので、改装・改修を施されながら現役施設として使われています。
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この事業所で最も大きな建物となる旧混汞所。現在は事務所として使われています。
砕いた鉱石と水銀を混ぜて加熱し銀を取り出す、一連の工場施設の中核を為す施設でした。
煉瓦造2階建てですが、当初は1階建で建てられ、後年に2階部分を増床しています。
現在は外壁にモルタルが塗られていて見えませんが、1階部分はフランス積、2階の増築部はイギリス積の変則的な構造です。竣工時にフランス人技師が手掛けた1階は当然ながらフランス積が使われ、後年の増築時には当時主流となっていたイギリス積を採り入れたものと思われます。
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階段の上にも大きな建物が見えます。搗鉱所と呼ばれたこの建物は、鉱石を粉砕する施設として使われました。明治7年築。
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搗鉱所を繋ぐ階段の石組。アーチ部分は煉瓦で塞がれています。
ここから先は見学コース外との事で残念ながら進めませんでした。
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正門を入って最初に見えてくる建物です。手前に見えるのが中門休憩所、その奥に重なるように建つのはオリバーフィルター室(砕いた鉱石を濾し分ける施設)と呼ばれた建物です。
この2棟は竣工時の建物ではなく、明治中頃に建てられています。
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外壁の一部はモルタルが剥離し、イギリス積煉瓦の下地が見えています。
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各地の鉱山が閉山を余儀なくされる中、このような古い精錬所の殆どは取り壊されてしまいました。
三菱マテリアル生野事業所に現存するこれらの建物は、現役で使われている明治期の精錬所建物として極めて貴重な例であり、日本の近代鉱業の基礎を築いた生野の歴史を今に伝える優れた産業遺産となっています。
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by sunshine-works | 2012-11-06 23:57 | 近代建築 兵庫県 | Trackback | Comments(0)
2012年 11月 02日
生野鉱山関連の産業遺産1
朝来の近代建築その4

岩美と並ぶ銀山として知られる生野鉱山の歴史は、平安期に遡るとも言われています。本格的に開発された室町時代以降は諸大名や幕府の財政を支え、明治以降は官営鉱山として近代日本の発展に多大な貢献を果たします。
その後三菱に払い下げられた後もおよそ80年に亘って主力鉱山として銀、銅、亜鉛その他を産出し、昭和48年の閉山まで日本を代表する鉱山としての地位を保ちました。
朝来の近代建築巡りは今回から3回に亘ってこの生野鉱山関連の近代化遺産を紹介します。
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長い歴史を持つ生野鉱山は新たな鉱脈を求め時代と共に様々な箇所に坑口が開けられました。閉山時に主坑として使われていたこの金香瀬抗は明治5年に開削されたもので、西洋技術を導入して鉱山近代化が図られた最初期の構造物です。
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生野鉱山に近代採鉱技術を伝えたのは政府が明治初年にフランスから招いた技師団でした。
コアニエとムーセを中心とした技師団によって、この坑口をはじめ坑内施設や付帯設備の殆ど全てが西洋式の規格に更新されていきます。
近代化を果たした生野鉱山は、「マザーマイン」としてその後の日本の鉱山技術を先導する役割を担っていきます。
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観光施設として公開されている坑道の一部。江戸期から昭和までの各時代の坑道を見る事が出来ます。
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現在は観光施設となっている旧生野鉱山の入口には、ここから西方へ2キロ程離れた場所にある生野支庁(選鉱~精錬を経て地金に加工する工場)に設置されていた正門柱が移設されています。
花崗岩を積み上げた重厚な造りのこの門柱も明治初期に設置されたもので、昭和52年に当地に移されています。
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門柱は大小それぞれ2本ずつ。内側の大きな門柱の間が大門、その両脇に脇門が設置されていました。門柱に飾られた菊の御紋は明治の一時期に生野鉱山が宮内省の直轄だった名残です。
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山合いに開けた鉱山町生野は、近代化された生野鉱山の躍進とともに隆盛を極め、充実したインフラ・生活環境の下で豊かな文化を育みました。
現存する生野鉱山や関連施設の遺構は、日本の貨幣基盤を支えた産業遺産として極めて重要な存在です。
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by sunshine-works | 2012-11-02 20:36 | 近代建築 兵庫県 | Trackback | Comments(2)