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2009年 01月 31日
旧小久保跨線橋
明石の近代建築その2

JR西明石駅北西の上ヶ池公園の片隅に一連のアーチ橋が置かれています。この橋は西明石駅の跨線橋だったものを当地に移設したものですが、元々は明治中期に架けられた九州鉄道の鉄道橋でした。
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昭和2年に九州から移設し跨線橋として平成6年まで使用され、新しい橋の架設に伴いこの公園に移されました。
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橋の種類としてはボーストリングトラスと呼ばれる鋼橋で明治期に多く架けられた古いタイプの橋です。
九州鉄道(九州に最初に鉄道を敷設した私鉄で後に国営化)は明治20年代から30年代初期にドイツからこのタイプの橋を多数輸入し自社の路線に架設して行きました。この時に架けられた同社のボーストリングトラス橋の多くは九州鉄道での使命を終えた後も他所に移設され、様々な用途の橋として転用されます。100年以上を経た今日もこの橋の姉妹(兄弟)が各地に現存しています。
*詳細はこちらのサイトをご覧ください。
ドイツ ハーコート社製のこのタイプの橋は後進国でも技術的に対応出来る様に工法が工夫され、日本以外にも当時の発展途上国に数多く輸出されていたそうです。
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2連あった橋の1連が公園内の散策路の一部となっています。平地に設置され、もはや橋としては使われていません。
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保護の為なのか安全の為なのか両サイドに手摺が付けられているのが目障りなところですが、鉄骨の質感とトラスの造形美に魅了されます。橋の細部をこれほど真近で観察出来る所はそうはありません。
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補修を施されているとは思いますが、明治中期の橋とは思えない良好な状態です。
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各部の接合にボルトとピンを多様しているのが特徴です。足元などは橋と言うより機械装置の様です。
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近代土木技術の発展によってこの形式の橋は廃れてしまいましたが、黎明期の地方鉄道を支え、その後も各地で生活に密接に結びついた橋として100年以上も現役を勤めた功績は多大なものがあります。
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by sunshine-works | 2009-01-31 18:52 | 近代建築 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 27日
旧明石女子師範学校付属小学校
明石の近代建築その1

明石海峡大橋を戻り、西へ探訪を進めます。神戸市の西隣の明石市は城下町として栄え、明治以降も西播磨の中心都市として発展を続けました。神戸の先進的な文化の影響を受けて早くから都市化が進み、近代的な建築物も数多く建てられて行きました。明石の近代建築その1は現在も現役施設として使われている学校建築を紹介します。
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明石駅の北東、明石城の城跡から程近い閑静な一角に建つこの校舎は旧明石女子師範学校の付属小学校として建てられました。昭和12年築。
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明治政府によって定められた師範学校令により全国主要都市に師範学校が建てられていきます。兵庫県内には神戸市に兵庫第一師範学校、姫路市に兵庫第二師範学校が置かれていましたが、県内3番目の師範学校として明治35年に設立されたのが女子教員の養成機関である明石女子師範学校でした。明治37年には同校の実習校としてこの付属小学校が開校しています。
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控えめで極めてオーソドックスなデザインです。庇や軒のコーナーに付けられた緩いアールが時代を感じさせますが、それ以外は今日良く目にする一般的な学校建築と然程変わらない印象を受けますま。
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とは言え、やはり玄関周りにはしっかり装飾が施されています。
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ガラス越しに玄関内部を覗って見ました。
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玄関の対面、校庭側の様子です。
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大きなアーチ窓を持つこの棟は体育館か講堂と思われます。
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こちらは校舎の東端です。
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楕円形の柱や庇の緩やかなカーブはいかにも昭和初期のデザインです。
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戦後間もなく師範学校制度は廃止され、明石女子師範学校は神戸大学教育学部に発展して行きます。付属小学校も神戸大学教育学部付属明石小学校として歴史ある校舎を守って来ました。
現在この付属小学校は神戸大学の付属校再編計画で募集停止となっているのですが、校舎の今後ははたしてどうなるのでしょうか。
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by sunshine-works | 2009-01-27 21:31 | 近代建築 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 23日
福良警部派出所(旧福良警察署)
淡路島の近代建築その10

淡路島の南端、鳴門海峡に臨む福良の町は港を中心に発展した南部の中心地です。この福良の旧道に面して建つ警部派出所の建物は昭和3年に福良警察署の庁舎として建てられました。
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大きな島である淡路島には中心都市の洲本の他に幾つかの拠点となる町が栄えました。特に福良は四国を結ぶ交通の要として、また豊かな漁場を控えた漁港として発展し、古い町並みの中に民間企業や銀行の支店、県や国の行政機関等の近代建築が幾つも建てられていきました。
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中心部からやや離れた場所の旧道沿いに位置します。比較的狭い前面道路ですが、昔は港や中心街から繫がる賑やかな通りだったと思われます。
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道路に面した建物正面。派手な意匠はありませんがこの時代の庁舎らしく玄関周りに凝った装飾が施されています。
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築後80年近く経過していますが、竣工当時の写真と見比べて見ても一部の窓が塞がれていたり窓枠がサッシに変わっている以外は外観に大きな改修は加えられていないようです。
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玄関周り以外には3階窓上部のテラコッタ飾りと屋上の素焼瓦のパラペットをアクセントとしています。系統的にはスパニッシュ様式になるのでしょうか。警察署としては何ともユニークな建物です。
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裏側にあたる建物南側。こちらからの眺めはなおさら南欧色が濃く出ています。
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警察庁舎はその威厳を示す目的もあって、どっしりとした重厚な建物が各地に建てられましたが近年その多くは建て替えや改装によって姿を消しています。兵庫県内でも戦前に建てられ今なお現役の警察庁舎はごく僅かとなってしまいました。
特殊な建物故に転用が難しいのでしょうが、個性を活かせばいろいろな使い方があるかもしれません。
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by sunshine-works | 2009-01-23 21:27 | 近代建築 | Trackback | Comments(2)
2009年 01月 19日
上田池堰堤
淡路島の近代建築その9

淡路島の最高峰 諭鶴羽山の麓一帯は淡路島の水源として多くのダムや溜池が築かれました。淡路島最初の農業用ダムとして昭和7年に竣工した上田池(こうだいけ)堰堤は農業ダムとしては全国でも数少ない石積み式の重力ダムです。
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淡路島の年間降水量は全国平均の7割程度の年平均1,300㎜、極端に少ない訳ではない(東京は1,500㎜)のですが、短く流域面積の少ない川が数本あるだけで河川水に恵まれず、古くから農業水利は溜池に頼っていました。
(島内の溜池は2万を超えると言われています)
しかし小規模な溜池は水量も乏しく、たびたび旱魃に見舞われる不安定な農作を強いられてきました。近代土木技術が発達し大規模なダムの建造が可能になった大正後期、この地に安定した農業用水を供給する目的で計画されたのがこの上田池ダムでした。
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40メートルを超える堰堤の高さは粗石積みの農業ダムとして最大のものです。深い緑の山中に荒々しい岩壁が城壁のように聳え立ちます。
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ダム湖側から堰堤を臨みます。豊かに水を湛えた湖面に重厚な石積が映えます。
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天端中央に設けられた半円筒形の機械室。この時代に多く見られるデザインです。
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堰堤上の中央部には石の欄干が並びます。前後の擁壁は三角形に石を抜いて飾りとしています。
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天端から覗いた下流側。思わず吸い込まれそうになります。
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人力中心に進められた上田池ダムの建設は7年に及ぶ難工事の末昭和7年に竣工します。今日、近畿圏の農産物供給基地として大きな地位を占める淡路島の農業を支えたのがこの上田池ダムに始まる一連の水源開発でした。
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おまけ
麓に数ヶ所設けられた円筒分水工と呼ばれる施設。ダムから引かれた灌漑用水を各農地へ公平に分配する為のものです。
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by sunshine-works | 2009-01-19 22:25 | 近代建築 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 14日
旧三原郡役所
淡路島の近代建築その8

淡路島の中南部を占める南あわじ市は合併によって平成17年に誕生した新しい市です。この南あわじ市の市域の大半を構成していた旧三原郡の郡役所が淡路島中央の観光施設(淡路ファームパーク)に移設公開されています。現存する洋風建築物としては淡路島で最も古く、また兵庫県内に残る旧郡役所の中でも最古のものです。明治17年築。
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この建物が建てられた明治17年当時は神戸の外国人居留地を別にすれば洋風建築物はまだまだ珍しい存在でした。
文明開化とは言え都市部以外の地域の住環境は江戸時代とさほど変わっていなかったこの時代、それまで誰も見たことが無かった洋風の建築意匠が地域の中に取り入れられる先鞭となるのが学校や役場などの公共施設でした。これらの多くは後に偽洋風と呼ばれる地元の大工・棟梁達が日本建築の技法で手がけた和洋折衷様式の建物でした。
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明治17年に竣工してから大正15年まで三原郡役所として使用されました。郡制が廃止された後は幾つかの公共施設に転用されながら現役で使われていました。
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平成7年の阪神淡路大震災でこの建物は半壊する被害を受けました。当初は取り壊される予定だったのですが地元からの保存要望を受けて解体保存され、平成19年にこの地に再建されました。
破損や腐食した箇所が多く、元の部材は全体の4割程度との事なので厳密に言えば復元ではなく再現と言えなくもありませんが、外装は新旧の部材が巧みに組み合わされておりほとんど違和感の無い仕上りになっています。
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いかにも役場らしい堂々とした玄関周り。玄関の屋根瓦はオリジナルのものが使われているそうです。
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室内は大きく改装されていますが所々に当初のイメージが残されています。
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新政府により各地に建てられ、地方に洋風建築を広める先駆けとなった町村役場はその多くが木造建築だったこともあり、現存しているものはごく僅かとなってしまいました。
再建されたこの旧三原郡役所は当時の役場建築の姿を伝える資料性の高い建物として平成20年に国の登録有形文化財に登録されています。
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by sunshine-works | 2009-01-14 20:02 | 近代建築 | Trackback | Comments(0)
2009年 01月 10日
由良要塞(生石山砲台)
淡路島の近代建築その7

紀淡海峡を挟んで和歌山と対峙する淡路島東南部の由良は古くから大阪湾の海防上の要衝でした。幕末には沿岸に台場が築かれ、背後の丘陵地には明治中期から昭和20年の敗戦まで旧軍の要塞が置かれていました。今回は由良の山中に残る要塞跡を紹介します。
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木立に半ば埋もれるようにして煉瓦造の施設跡が点在しています。戦後進駐してきた米軍によって粗方の施設は破壊されてしまいましたが、煉瓦造の砲側庫(弾薬庫)跡が残っています。
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由良要塞はこの生石山地区と対岸の和歌山県加太地区、紀淡海峡上の友が島にそれぞれ砲台を配置し一群の防衛拠点として計画されました。当時としては大口径の28センチ砲が装備され大阪湾口の防御の要と位置付けられていましたが、明治後期には要塞施設の存在意義が薄れ備砲は徐々に前線に移動されてしまいます。第一から第五まであった生石山の砲台の四つはその後廃止され、第四砲台のみが終戦時まで残されていました。
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由良には対岸の和歌山や四国の鳴門要塞を管轄する要塞司令部が置かれ淡路島の中で最大の軍事拠点でした。要塞周辺は極秘とされ一般人の立ち入りは一切できなかったそうです。

砲側庫は土手を掘って煉瓦を積み上げた半地下式構造となっています。防御上の利点からでしょうか要塞施設にはこの形式が多いようです。
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地面に残る円形は砲座の跡です。現在は土砂で埋まっていますが地面を掘り下げて砲が据え付けられていました。
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ほとんどの砲側庫跡は壁が崩れ内部の原形を留めていない中、ここだけは当時の状態が確認できます。
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砲台跡の傍に古い砲身が飾られています。この場所は固定砲台ではありませんが沿岸を望む保塁(大砲を据える陣地)だったといわれています。
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結局、この由良要塞は一度も使用されること無く終戦を迎えます。全国各地に築かれた沿岸砲台は本土決戦の際にはその威力を発揮するはずでしたが、圧倒的な彼我の物量差の前にはほとんど戦力にならない時代遅れの産物だった様です。

各地に残る旧軍の遺構の中でも要塞施設は特に生々しい負の遺産ですが、戦争を風化させない意味で残されて然るべきものかもしれません。
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by sunshine-works | 2009-01-10 14:29 | 近代建築 | Trackback | Comments(2)
2009年 01月 06日
猪鼻ダム
淡路島の近代建築その6

洲本市街を南下し山間部を更に奥へ進みます。淡路島には標高の高い山はありませんが洲本の市街地はすぐ裏手まで山が迫り、鬱蒼とした森の景色が広がります。この丘陵地は明治以降淡路の水源地帯として開発され、多くのダムが築かれて行きました。洲本の水道ダムとして最初に築かれた猪鼻ダムは昭和9年に竣工しています。
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水圧を堤体の自重で支える重力コンクリート式のダムです。積み上げた礎石にモルタルを充填する当時の一般的な工法で造られています。
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神戸市が造成した3つのダムに比べると堰堤の幅は半分程度でダムとしては比較的小規模ですが人口の違いを考えれば十分な大きさと言えます。
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堰堤は至ってシンプルな構造です。ゲートには開閉装置がなくそのまま越流させる形式になっています。
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残念ながら天端は立入できません。
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下流側から眺めた堰堤。相当な高さがあります。
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大きな川が無く且つ降水量が少ない淡路島は昔から水利に苦心し、島内には多くの溜池が各地に築かれていました。
当時まだ市制施行前だった洲本町にとってこの水道ダムの建設は大事業だった事と推測されますが、近代水道の整備は洲本をより大きく発展させて行く事となりました。
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by sunshine-works | 2009-01-06 00:37 | 近代建築 | Trackback | Comments(0)