近代建築Watch
2024-03-17T11:37:16+09:00
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大阪・兵庫・西日本 近代建築観察
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旧柳原銀行本店
http://hardcandy.exblog.jp/33901204/
2024-03-17T11:20:00+09:00
2024-03-17T11:37:16+09:00
2024-03-17T11:20:57+09:00
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近代建築 京都府
京都駅の烏丸口から塩小路通りを東へ進みます。河原町通りを渡って南に折れた先の開けた一角に明治期に建てられた銀行店舗が残されています。
この建物は旧柳原銀行の本店として明治40年に建てられました。
木造2階建て、下見板張り。地元の棟梁による所謂疑洋風建築で、縦長窓を廻らせ、三角破風を掲げた当時の一般的な木造洋館のスタイルです。
外壁は下見板貼りで、胴蛇腹に縦方向の羽目板を貼って変化を付けています。
大正期以降に非木造が一般的になっていく銀行建物の中で、明治期に建てられた木造銀行店舗が保存されているのは全国的にも希少な事例となります。
柳原銀行はこの周辺地区の有志11名の出資により明治32年に設立された民間銀行で、地場の産業である皮革加工業を中心とした中小商工業者を資金面で支えて行きます。設立後の柳原銀行の業績は順調で、明治末年までに数度に渡る増資や高率の配当を維持し、資金を蓄えます。柳原銀行はこれら収益の多くを町のインフラ整備や学校運営に充て、貧困や差別に苦しむ当地区の振興と生活改善を担いました。
建物は上から見て台形状で、上底にあたる部分に入口を構えます。突き出した庇や車寄せは無く、入口上部の三角ペディメントを装飾の要とします。
側面から裏側の眺めです。銀行店舗の後に商店や住宅として使われた為に数度の改修が行われましたが、現在は当時の資料を基に竣工時の姿を取り戻しています。因みに全体に塗られているうす緑色のペイントは修復時のもので、元々は茶色系の塗装だったようです。
大正期に入り山城銀行と名称を改めた柳原銀行は、京都全域を活動域を広げ、第一次大戦による好況の下で業績を伸ばしますが、その後の世界不況の煽りを受けて資金繰りが一気に悪化、昭和初期には取付騒ぎを発端としてついに破綻してしまいます。
現存するこの建物が銀行店舗として使われた期間は約20年程と短いものでしたが、設立の経緯や果たした役割りの重要さから、移築と修復保存が決定し、平成9年から資料館として公開されています。
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旧開智小学校
http://hardcandy.exblog.jp/33887024/
2024-03-10T11:26:00+09:00
2024-03-10T11:26:05+09:00
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近代建築 京都府
前回紹介した旧成徳中学校が面する高辻通りを東へ進みます。
烏丸通りを渡り、佛光寺の門前を越えて程なく進んだ一角に、昭和初期に建てられた旧小学校校舎が残されています。
現在は学校歴史博物館として使われているこの建物は開智尋常小学校の校舎として建てられました。
開智小学校もこれまで紹介した成徳小学校、淳風小学校と同じく明治2年に設置された番組小学校の一つで、下京第11番小学校として開かれました。現存する校舎は昭和13年に建てられた教室棟(本館)と昭和11年に建てられた講堂、昭和31年に建てられた北館からなり、本館と講堂部分が博物館施設として公開されています。
戦前築の二つの棟。左が講堂、右側が本館。玄関右側の張り出しは博物館改修時に付けられたエレベータ施設です。
一繋がりとなっている講堂と教室棟は統一された意匠で、横長窓と窓台で水平ラインを強調します。
戦後に建てられた北館部分も本館と意匠を合わせて統一感を保っています。
玄関部分には和風の庇を張り出します。この玄関庇は当初からのものではなく、かつて成徳小学校の玄関車寄せとして設置され、その後寺院の門として使用されていたもので、博物館開設後の平成19年にこの地へ再移築されました。
開智小学校は平成4年に洛央小学校に統合されて123年の歴史を終えます。その後改修工事を経て平成10年から京都市の小学校教育に関する資料の展示施設として使われています。
階段床板は木貼りではなくタイルを敷き詰め、腰壁や手摺にも石を使う贅を凝らした造りです。
階段を上った先の扉は講堂の入口。講堂は本館に隣接する二階建てで、1階部分に室内運動場、2階に講堂が置かれていました。
館内は各種展示室が並び、かつての教室を再現した区画も設けられています。
敷地の東側には和風の正門を構え、左右に石塀を廻らせます。正門は明治34年、石塀は大正7年に設置されたものです。
校舎裏側、西面の眺めです。
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旧成徳中学校
http://hardcandy.exblog.jp/33869465/
2024-03-03T11:15:00+09:00
2024-03-03T11:07:03+09:00
2024-03-03T11:04:47+09:00
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近代建築 京都府
京都市の中心部、四条烏丸のビジネス街の程近く、高辻通りに面した一角に、昭和初期に建てられた旧小学校校舎が残されています。
この建物は旧成徳尋常小学校の校舎として昭和6年に建てられました。
成徳尋常小学校は、前回紹介した旧淳風小学校と同じく番組小学校をルーツとする小学校で、明治2年に下京九番組小学校として設立されました。
現存するこの校舎は昭和6年に当地に移転した際に建てられたもので、昭和23年からは成徳中学校に校舎を移管し、平成19年まで使用されました。
昭和6年に建てられた校舎は一階壁面にアーチ型の窓や入口を並べた優美な造りで、殆ど装飾要素の無い上階部分との対比が意匠を際立たせます。
正門は建物東端に設けられています。この校舎の特徴の一つが玄関周りや門柱及びアーチ窓部分に切石を用いている事で、小学校校舎としては珍しい豪華な造りとなっています。
建物西側にもアーチで囲まれた入口を構えます。右隣に並ぶ棟は増築された新館部分です。
成徳中学校が廃校となった現在は、統合した下京中学校が体育館とグランドを使用し、旧館部分には、まちづくり大学や文化協会などの団体が入居しています。
玄関ホール内部。アーチを廻らせ、化粧タイルや石を貼った階段周り等、外装に劣らぬ凝った造りとなっています。
校庭側の眺めです。
三階の窓は下階の窓幅を半分に割り、変化を付けています。
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旧淳風小学校
http://hardcandy.exblog.jp/33853580/
2024-02-25T11:33:00+09:00
2024-02-25T11:33:07+09:00
2024-02-25T11:33:07+09:00
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近代建築 京都府
西本願寺と通りを挟んだ北側、大宮通りに面した一角に昭和初期に建てられた旧小学校校舎が残されています。
この建物は京都市内に64校設置された番組小学校の一つ、淳風小学校の校舎として昭和5年に建てられました。
東西方向と南北方向に延びる2棟がL字型に繋がる鉄筋コンクリート3階建て。頂部にアーチを描く三連の縦長窓が並びます。
L字型に交わる基部に設けた入口。短い庇を張り出します。
京都市の小学校では、大正時代の後期に最初の鉄筋コンクリート校舎が建てられ、昭和10年代までの十数年の間に木造校舎から近代的な鉄筋コンクリート校舎への更新が行われて行きました。これらの設計は京都市営繕課によって手掛けられましたが、戦後の学校建築の様な一律の基本形とはせず、どの校舎もそれぞれに特有の意匠表現が加えられていました。この淳風小学校ではリズム良く並ぶ縦長アーチ窓の配列がその特徴で、長い壁面を美しく彩っています。
大宮通りに面した西面に設けられた玄関。この面にも同様の縦長窓が並びます。
アーチが囲む玄関ポーチ。
北側の面の眺め。
淳風小学校は平成29年に近隣の小学校と統合して147年の歴史を終えます。その後は京都市創業・イノベーション拠点「淳風bizQ」の施設として、かつての教室が民間事業者の区画に利用されています。
小学校当時のまま残る床や壁。
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旧真宗信徒生命保険株式会社本館(本願寺伝道院)
http://hardcandy.exblog.jp/33841243/
2024-02-18T11:27:00+09:00
2024-02-18T11:27:54+09:00
2024-02-18T11:27:54+09:00
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近代建築 京都府
西本願寺の東向かい、仏具店が並ぶ門前町の一角に、一際目を惹く煉瓦造の建物が残されています。
この建物は本願寺により設立された生命保険会社の本社として明治45年に建てられました。設計は宗教建築を得意とした伊東忠太が担当しています。
仏具店が並ぶ通りの角地に建つ煉瓦造2階建て(一部3階建て)。上部に乗せた円形ドームや小塔、各面を飾る破風や屋上のパラペット、軒下や窓周りに施された装飾、辰野式の白石帯等、洋風建築の中に様々な意匠を盛り込んだ独特の外観が周囲の京町家の中に異彩を放ちます。
コーナーに構える入口。扉上部のアーチは寺院建築に使われる割束を模したもの。側面二階部分の窓上や建物脇の入口にも同様の形状が使われています。
門徒の福利と宗派の営利を目的に明治中期に相次いで創業された仏教系の生命保険会社でしたが、いずれも経営は順当とはいかず、事業は早々に破綻してしまいます。明治末年までに仏教系生命保険会社が相次いで一般生命保険会社との合併や吸収によって事業を終える中、唯一この真宗信徒生命保険会社のみが大正から昭和初期を乗り切り、野村財閥に吸収される昭和9年まで存続しました。その後建物は西本願寺の施設として幾つかの用途に使われ、現在は僧侶の研修施設として使われています。
円形のドームを乗せた塔屋。和風でも洋風でも無いこの造形は中東や南アジアの建物を思わせ、周囲の欄干部や破風上の小塔は中国建築風な表現です。設計者の伊東忠太はインドやトルコ、中国への渡航経験があり、生涯手掛けた建築の多くにこのようなエスニック風の意匠が用いられています。
西面の眺め。建物脇には裏へ抜ける入口を構えます。
こちらは北側の壁面。道路に面した東西の面には入口が無く、コーナー部の玄関以外には裏側の通用口のみとなっています。
東面の眺め。裏側にあたるこの面の角には六角形の塔屋が据えられています。
敷地境界に並ぶ柱に乗せられた18体の神獣。こちらも和風ではない異国風の意匠です。
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龍谷大学大宮学舎 2
http://hardcandy.exblog.jp/33833092/
2024-02-11T11:26:00+09:00
2024-02-11T11:26:12+09:00
2024-02-11T11:26:12+09:00
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近代建築 京都府
龍谷大学大宮学舎に残る近代建築巡り、今回はキャンパスの中央に建つ本館を紹介します。
木造2階建て寄棟造。漆喰壁にアーチ窓を廻らす意匠は前回紹介した南黌・北黌と共通のもの。正面と背面にバルコニーを乗せた車寄せ玄関を張り出し、上部に三角破風を掲げます。方形の大きな構えで、学舎の中核施設にふさわしい風格を備えます。
バルコニーを乗せた玄関ポーチ。扉周りは何層にもアーチが重なる重厚な造りです。
玄関奥には100畳敷の講堂へ繋がる階段が設けられています。
明治12年に一連の施設が建てられた当初はこの本館のみが教学の場として使われ、本館には講堂の他に幾つかの小数室や教員室、貴賓室が設けられていました。
バルコニーを覆う三角破風。天井部は和風の折り上げ格天井となっています。
玄関部を側面から眺めます。
建物南面からの眺め。南黌との間を渡り廊下が結びます。
南西角を曲がって西面の眺め。建物裏側にあたるこの面は窓がありません。
西面の三角破風です。
建物南面へ出ます。
南黌と本館の間には屋根が渡されていますが、反対側のこの面には屋根がありません。当初は北面にも屋根がありましたが、その後に失われています。
現存する木造校舎としては明治9年築の長野県旧開智学校が最古のものとされていますが、明治12年築のこの龍谷大学大宮学舎に残る三棟の建物と門衛所、正門および渡り廊下は、おそらく大学施設として日本最古級のものと思われます。京都市内の近代建築の中でも明治10年代のものは殆ど無く、極めて貴重な存在となっています。
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龍谷大学大宮学舎1
http://hardcandy.exblog.jp/33823944/
2024-02-04T11:10:00+09:00
2024-02-04T11:10:37+09:00
2024-02-04T10:05:07+09:00
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近代建築 京都府
前回紹介した旧村井銀行七条支店から七条通りを西へ。堀川通りの交差点を渡ると、北側に西本願寺の広い敷地が広がります。
この西本願寺の境内に接する七条通りに沿った一角には龍谷大学のキャンパスが置かれており、中央に建つ本館を始め重要文化財を含む歴史ある建物や構造物が現存しています。今回と次回は明治12年に建てられたこれらの建物を紹介します。
龍谷大学は江戸時代初期に開かれた西本願寺の学寮を起源とする古い歴史を持ち、明治初期には仏教以外の科目を開いて後の大学令発布によって大学となる基礎を築きます。
大宮学舎と呼ばれるこのキャンパスは明治4年に開設された同校最古の校地で、8年後の明治12年に現存する4棟の建物が建てられます。
入口に構える石造の門柱。現在の龍谷大学の前身となる大教校の一連の建物が竣工した明治12年に設置されたものです。
正門の裏手に建てられた煉瓦造の門衛所。こちらも明治12年の築。
門衛所の斜め西、木造2階建ての校舎が細長く伸びます。南黌と呼ばれているこの建物は北側に向き合って建つ北黌とほぼ同じ造りで、当初は寮として建てられました。
庇の上にバルコニーを設けた中央の入口。他の窓も合わせて開口部はファンライトを備えたアーチ型で統一されています。
建物西端には本館と結ぶ渡り廊下を覆う木造の屋根が設置されています。パージボードが軒を飾るこの屋根も明治12年のものです。
東端に戻って東面と裏側を廻ります。妻面に設けられた車寄せにはアーチが支える切妻庇を張り出します。
建物裏側にあたる南面の眺め。表面とほぼ同一の造りとなっています。
中庭を挟んで向き合って建つ北黌。
南黌と北黌は規模も外観も殆ど同じですが、南黌との違いはアーチ区画の奥手に玄関が設けられているこの部分で、向き合う南黌ではバルコニーを乗せた車寄せ玄関が置かれた位置に該当します。
南黌と北黌は当初は寮として建てられましたが、その後に教室や研究室に改装されています。
北黌の東側の眺め。南黌と同様の車寄せを構えます。
裏側にあたる北面に廻ります。
奥に見えるのが講堂として建てられた現在の本館。次回はこの建物を紹介します。
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旧村井銀行七条支店
http://hardcandy.exblog.jp/33810089/
2024-01-28T11:10:00+09:00
2024-01-28T11:10:16+09:00
2024-01-28T10:19:15+09:00
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近代建築 京都府
前回紹介した旧鴻池銀行七条支店から西へ進んで程なく、七条通りと中筋通りが交わる地点にも、かつて銀行店舗として建てられた建物が現存しています。
この建物は村井銀行七条支店として大正3年に建てられました。
七条通りに南面して建つ煉瓦造2階建て。正面に4本のドリス式ジャイアントオーダーを並べ、軒下のフリーズ部分には付柱と円形のモールディングを交互に廻らせます。大正初期の銀行建築の重厚感を備えながら一部にアールデコの要素も採り入れ、古典様式と巧みに折衷させています。
村井銀行七条支店が竣工した大正3年当時は、鉄筋コンクリート建造物が普及する前段階で、銀行建築の多くは石や煉瓦を構造材としていました。
この建物も煉瓦造に切妻屋根を葺いた明治期から使われる古い造りを基本としていますが、外壁は石とモルタルで煉瓦を覆い、屋上に立ち上げたパラペットで屋根を隠して石造風の外観に見せています。
中央に小さく構える入口。円柱が支える庇は後年に付けられたものです。
村井銀行七条支店はその後昭和銀行、安田銀行の支店へと引き継がれ、保険会社の営業所を経て幾度か民間企業の店舗として使われます。撮影時は新しいテナントの入居が終わったばかりで、整えられて綺麗な状態になっていました。
前面に堂々と並ぶ四本のオーダー柱。建物規模に不釣り合いな程のその大きさが強い存在感を示します。
中筋通りに面した西面。中央に三角破風を乗せた入口を構えます。
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旧鴻池銀行七条支店
http://hardcandy.exblog.jp/33798243/
2024-01-21T11:08:00+09:00
2024-01-21T13:27:17+09:00
2024-01-21T11:08:03+09:00
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近代建築 京都府
前回紹介した旧日光社社屋の斜め向かいに三連のアーチが連なる旧銀行店舗が残されています。
この建物は旧鴻池銀行の七条支店として昭和2年に建てられました。設計は関西を中心に活躍した大倉三郎が担当しています。
七条通りの北側に建つ鉄筋コンクリート2階建て(一部3階建)。正面は玄関を中心にシンメトリーに建物を配置、上部に半円アーチを描く縦長の窓型を三面並べ、玄関庇や軒周りを細密な装飾で飾ります。古典様式を基本としていますが、明治大正時代の銀行店舗に見られるオーダー柱や付柱を持たず、ファサードもフラットな構成で、重厚感や権威性を減じながらも意匠表現を保つ、時代の推移に則した銀行建築となっています。
七条通りは古くから商業が栄えた地で、東海道本線開通後は京都駅前の繁華街として発展しました。大正後期には市電が通り、街路も拡幅されたこの一帯には多くの金融機関の支店が建てられて行きます。昭和2年にこの地に建てられた鴻池銀行七条支店は6年後の昭和8年に後身の三和銀行へ引き継がれ、昭和30年代まで同行の店舗として使用されます。その後は民間企業で店舗として使われ、現在は結婚式場を兼ねたレストランとなっています。
短く張り出した玄関庇。柱頭や持ち送り部分は精緻な彫刻で飾られます。
一階正面の壁面は目地を切って石積み風に表現しています、
軒を飾るロンバルジ帯は建物側面にも廻らされます。奥側には一段高くなった三階部分が望めます。
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旧日光社社屋(富士ラビットビル)
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2024-01-14T11:09:00+09:00
2024-01-14T11:09:50+09:00
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近代建築 京都府
前回紹介した旧不動貯蓄銀行七条支店から七条通りを西へ進んで程なく、現在はテナントビルとして使われているモダンな建物が見えてきます。この建物は米国フオード自動車の日本販売代理店として創業した日光社の営業所として大正14年に建てられました。
七条通りと新町通りの交差点南側に建つ鉄筋コンクリート3階建て。
ガラス窓が嵌った半円形の破風、破風に繋がるギリシア風のオーダー柱、建物両脇の付柱、屋上を囲むパラペット、壁面を飾るオーナメント、1階正面に貼られた化粧タイル等々、随所に様々な様式の意匠表現が施され、小さな建物ながら強い存在感を放ちます。
半円形のガラス窓が嵌る破風。破風の形状は社名に因んだ日光をモチーフとしたものです。
この建物に営業所を構えた日光社は、その後に勃発した第二次世界大戦によってフォード自動車の販売代理店としての業務継続が困難となると自動車修理及び部品販売業に転じ、戦後程なくして建物は富士ラビットスクーターの社屋として使われます。その後に飲食店ビルとなった現在も入口上部には富士ラビットの銘が刻まれており、一般的にはこの建物を富士ラビットの名称で呼んでいます。
一階正面は化粧タイル貼り。入り口両脇を飾る灯具は当時のまま再現されています。
一階上部の窓には自動車販売店当時を偲ばせる自動車をテーマとしたステンドグラスが飾られています。
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旧不動貯蓄銀行七条支店
http://hardcandy.exblog.jp/33774840/
2024-01-07T11:22:00+09:00
2024-01-07T11:22:09+09:00
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近代建築 京都府
前回紹介した旧野村生命京都ビル の斜め向かい、七条通りの北側に、かつて銀行店舗として使われたモダンなビルディングが建っています。
この建物は昭和5年に不動貯蓄銀行七条銀行として建てられました。設計は不動貯蓄銀行の多くの店舗を手掛けた関根要太郎です。
七条通りと烏丸通りが交わる繁華な交差点に建つ鉄筋コンクリート造2階建て。二階壁面に半円アーチ窓を並べ、その下の一階窓を大きな面格子が覆います。一見すると現代風の建築にも見えますが、当時の銀行店舗のイメージを刷新する斬新な建物として竣工しました。
設計者の関根要太郎は不動貯蓄銀行の営繕を担当する日本建設の技師として店舗設計に携り、独立後も引き続いて不動貯蓄銀行の支店を全国で手掛けます。
約25年に及ぶ不動貯蓄銀行の店舗設計では、ユーゲント・シュティールやセセッシオンを手始めに表現主義や古典様式、モダニズム等、幅広く作風が変遷していきますが、この七条支店は昭和初期の作品の幾つかに見られるモダニズム様式に寄った意匠で、外壁はピラスターやコーニス等を廃した凹凸の無い平面の組み合わせで、アーチ窓と四葉型の窓の意匠によって単調な壁面にアクセントを添えています。尚、現在は失われていますが、竣工時は二階に並ぶ三連のアーチ窓の下に三基の小さなバルコニーが設えられていました。
建物は非シンメトリーな構造、入口は建物右端に小さく構えます。上部の窓は丸窓とせずに四葉型の中に方形を嵌め込む凝った造りにしています。
入口周りも非常にシンプルで、小さな庇と薄い石段が備わるのみ。余計な飾りは一切ありません。
烏丸通り側から眺めた東側の壁面。奥側の三分の一程をL字に張り出しています。
北側に並ぶ東本願寺の際からの北面の眺め。表側と比べると無機質で如何にも裏側と言った印象です。
西側壁面にも表面と同じ窓が1連だけ配置されています。
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旧野村生命京都ビル
http://hardcandy.exblog.jp/33744716/
2023-12-24T11:30:00+09:00
2023-12-24T11:36:49+09:00
2023-12-24T11:30:11+09:00
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近代建築 京都府
前回紹介した旧京都電燈本社ビルの北東、烏丸通りと七条通りが交わる交差点に昭和初期に建てられた事務所ビルが現存し、今も現役で使われています。この建物は旧野村生命の京都支店として昭和12年に建てられました。
京都駅から北へ延びる京都の中心通り烏丸通りと、京都駅にほど近い繁華街として発展した七条通りが交わり、東本願寺の対面にあたる場所に建つ鉄筋コンクリート6階建て。広い交差点に建つとその美しいアールが一際目を惹きます。設計は野村財閥関連の建物を数多く手がけた安井武雄です。
関西を中心に多くの作品を残した安井武雄の京都に於ける唯一の現存作。
安井武雄は大胆な意匠でモダニズム建築の代表作となった大阪ガスビルを昭和8年に手掛け、昭和11年には満州鉄道東京支店を設計、この野村生命ビルはそれに次ぐ事務所ビルとなります。
前2作で極めたモダニズム様式は今作も徹底されて装飾意匠は最小限、御影石を廻らせた1階部分、連続窓風にアレンジした最上階の窓配置以外は極めてシンプルな外観とし、現代の事務所ビルにも通じる造りとなっています。
角をアールに仕上げたのはやはり目立つ交差点で存在を際立たせる為のものと思われ、実際北東角から眺めると京都駅へ向かう導線と、かつては銀行街だった七条通りの西側への導線、それぞれの起点となるこの位置でアール部分が極めて効果的な印象を与えています。
安井武雄は前作の大阪ガスビルや昭和2年の高麗橋野村ビルでもコーナーをアールに仕上げており、この辺は得意とする処だったのでしょう。
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旧京都電燈本社(関西電力京都支店)
http://hardcandy.exblog.jp/33715858/
2023-12-17T11:07:00+09:00
2023-12-23T13:27:26+09:00
2023-12-17T11:07:16+09:00
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近代建築 京都府
京都駅の北西、駅前ロータリーの向かい側に並ぶビル群の中に、昭和初期に建てられた事務所ビルが残されています。
現在は関西電力京都支店として使われているこの建物は、京都電燈本社として昭和12年に建てられました。
鉄筋コンクリート造8階建て、敷地面積約1,000坪、当時としては高層かつ大規模なビルで、エレベーターや全館冷暖房を備えた最新のオフィスビルとして建てられました。
設計は関西を中心に多くの著名建築を手掛けた武田五一で、この京都電燈本社ビルは氏の最後の作品となりました。
塩小路通りに面したエントランス周りは2階部分まで黒御影石貼り。建物外壁の薄茶色の化粧タイルとのコントラストでファサードを引き締めます。
設計者の武田五一は、和風を採り入れた折衷様式から古典様式、アールヌーボー、ゼセション等、時代の推移に応じた幅広い作風を展開していきますが、最終作となったこの京都電燈本社にはモダニズム様式を採り入れています。水平垂直のラインを強調した壁面に並ぶ大きな一枚窓、7階に廻らせたバルコニー、アールに仕上げたコーナー、黒御影石を貼ったエントランス壁面等の斬新な意匠は、戦前のモダニズム建築を代表する作品の一つとなっています。
この建物の特徴的な意匠である南東角につけられた美しいアール。南西角には塩小路通りと新町通りが直交する交差点がありますが、通りと交差していない南東角をアールに仕上げたのは京都駅からロータリーを抜けて塩小路通りに出る歩行者に向けての視覚効果を狙ったものと思われます。現在でも駅から塩小路通りに出ると最初にこの印象的な曲面が目に入ります。
駅前地下街から階段を上って地上へ出る際にもこの建物コーナーが現れます。
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梅小路蒸気機関車庫
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2023-12-10T11:29:00+09:00
2023-12-23T13:28:06+09:00
2023-12-10T11:29:43+09:00
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近代建築 京都府
京都駅の西方、東海道本線と山陰本線が分岐する地点の北側に、西日本旅客鉄道(JR西日本)の広大な車両基地が広がります。
この一角には大正期に建てられた機関車庫が現存し、鉄道博物館の一部として公開されています。
蒸気機関車が使われていた時代、車両を格納し、補給や整備・点検を行う施設として各運転区の車両基地には機関車庫が設置されていました。
この機関車庫には大きく分けて二つの形式があり、車両を平行に収容する矩形庫と放射状に収容する扇形庫が存在しました。
今回紹介する梅小路機関車庫は後者の扇形庫と呼ばれる形式で、大正3年竣工の建物は鉄筋コンクリート造の扇形機関車庫としては現存最古のものとなります。
機関庫を平行に並べた矩形庫は構造が簡単な事が利点ですが、庫数が多くなると車両を出し入れする為の線路が入り組んで煩雑となり、相応の敷地面積も必要となります。この対策として生み出されたのが扇形庫で、格納区画が3~4個程の小規模なものから、30を超える格納庫を持つものまで大小様々に全国で100を超える数が設置されて行きました。この梅小路機関車庫は全国に現存する12の扇形機関庫の中では最大規模のもので、20線の収容区画を有しています。
各庫内には明治期から昭和期にかけて使われた貴重な車両の数々が展示されています。
放射状に並ぶ20の車庫からまっすぐ伸びた線路の結合点、扇の要となる地点には車両の方向を変える為の転車台が据えられています。竣工当初は人力のものでしたが、現在は昭和31年に更新された電動式のものが使われています。
それぞれの車庫は壁で仕切られた独立した区画ではなく、柱と梁で天井を支えて広い空間を確保しています。設計を担当したのは当時鉄道省の設計技師で、その後独立してダイビルや大阪商船神戸支店、神戸証券取引所等の著名な建築を手掛けた渡辺節。鉄筋コンクリート造の扇形機関庫の先駆的な作品となったこの梅小路機関庫は、扇形機関庫の基本形式としてその後に受け継がれ、多くの類型が建てられて行きます。
天井から吊るされているのは蒸気機関車の排煙を外部に逃がす装置。天井を貫いて煙突に繋げられています。
外側からの眺めです。
遠景から全体を眺めます。
敷地の東側には蒸気機関車に給水する真水のタンクが残されています。
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旧二条駅舎
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2023-12-03T11:23:00+09:00
2023-12-23T13:28:36+09:00
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sunshine-works
近代建築 京都府
京都駅の西方、旧梅小路機関庫敷地に開設された京都鉄道博物館の一角に、明治期に建てられた木造駅舎が移設保存されています。
この建物は明治37年に民営の京都鉄道の二条駅として建てられ、その後は旧国鉄と西日本旅客鉄道の駅舎として平成8年まで使われました。
京都鉄道は京都から舞鶴間の鉄道敷設を目的に開設された鉄道事業社で、明治30年に最初の工区二条~嵯峨が開通、路線は明治32年に園部まで延伸されますが、当初目指していた舞鶴までの開通は叶わず、明治40年に国有化された後に路線は山陰本線の母体となりました。
現存するこの駅舎は京都鉄道時代の明治37年に建てられた二代目駅舎で、全国に現存する明治期の木造鉄道駅舎としては最古のものとされています。
木造二階建て、中央に切妻の庇を長く突き出します。和瓦葺き、漆喰壁、反りを付けた屋根先には鴟尾を飾る寺院風の意匠。近代化の象徴である鉄道駅舎を敢えて和風で仕上げたのには、京都御所に近い立地に配慮したものと思われ、構内には天皇御幸の際に使用する貴賓室も設けられていました。1階部分は駅務室や待合室が並び、2階部分は京都鉄道の本社として使われました。この為、駅舎としては2階区画が大きな造りになっています。
入口庇の鬼瓦には京都鉄道の紋章が刻まれています。
入口庇の先には軒庇が左右に延びて建物両端の張り出し部分までを繋ぎます。
ミュージアムショップや鉄道資料の展示スペースとして使われている建物1階内部。正面玄関は鉄道博物館の出口ゲートになっています。
駅舎裏側の様子。正面側と同じ様に軒庇を廻らせます。
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