2012年 12月 02日
旧生野鉱山外国人技師住宅2番館(旧ムーセ邸)
朝来の近代建築その7

現在は操業を終えてしまいましたが、養父市から朝来市にかけての但馬南部には、生野鉱山と同じ鉱脈を持つ明延と神子畑の両鉱山が存在していました。
三つの鉱山は専用の運搬道路で繋がれて物資や人が頻繁に往来し、それぞれが密接に結びついていました。
この道の名残を留める県道を生野から西へ約15キロ、山裾に巨大な旧選鉱場の跡地が残されています。
東洋一の選鉱場と言われたこの旧神子畑選鉱場に隣接して、一軒の白塗りの洋館が置かれています。
この建物は明治初期にフランスから招いた鉱山技師の住居として生野に建てられ、その後当地に移築されて神子畑選鉱場の事務所として使われました。
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木造下見板貼、平屋建。周囲にベランダを巡らせるコロニアル様式です。
明治初期に各地の工場や鉱山に招かれた外国人技師の住宅の殆どがこの様式で建てられました。
技師達は亜熱帯地域の気候に適合する住宅として発達したこの形式をそのまま日本に持ち込みましたが、降雪地の生野では冬場の不便の方が大きかったかも知れません。
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明治初年に招かれたフランス人技師団はおよそ30名。鉱山技師や抗夫の他に、煉瓦職人、鍛冶、土木技師、医師等多岐に亘り、一部の技師は家族を伴って赴任しました。
これら技師団の官舎として生野鉱山の西方に5棟の外国人住宅が建てられます。1番館の技師長コアニエ邸と2番館、3番館が妻帯者用住居、4番館と5番館が独身者用の居住施設として建てられました。
これらの中で唯一現存するこの旧2番館は、技師ムーセとその家族の住居に充てられました。
この建物は、ムーセが任を解かれて帰国した後の明治20年に当地に移築され、その後は神子畑鉱山の事務所施設として、閉山まで使われていました。
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玄関が設けられた東面を眺めます。
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各面に開放式のベランダを巡らせます。
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明延鉱山の選鉱場の付属施設として長く使われたこの建物は、鉱山の閉山に伴い放置された状態が長く続きましたが、平成16年に解体修理が施され観光施設として現在に至ります。
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敷地の外からの景色です。
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生野鉱山の近代化に伴って設置され、その後は関連する明延、神子畑鉱山の盛衰を今に伝える遺構としてこの建物が残ります。
近代国家の根幹を支えた鉱山施設として、貴重な現存資料の一つとなっています。
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by sunshine-works | 2012-12-02 23:57 | 近代建築 兵庫県 | Trackback | Comments(0)
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