2009年 01月 10日
淡路島の近代建築その7 紀淡海峡を挟んで和歌山と対峙する淡路島東南部の由良は古くから大阪湾の海防上の要衝でした。幕末には沿岸に台場が築かれ、背後の丘陵地には明治中期から昭和20年の敗戦まで旧軍の要塞が置かれていました。今回は由良の山中に残る要塞跡を紹介します。 木立に半ば埋もれるようにして煉瓦造の施設跡が点在しています。戦後進駐してきた米軍によって粗方の施設は破壊されてしまいましたが、煉瓦造の砲側庫(弾薬庫)跡が残っています。 由良要塞はこの生石山地区と対岸の和歌山県加太地区、紀淡海峡上の友が島にそれぞれ砲台を配置し一群の防衛拠点として計画されました。当時としては大口径の28センチ砲が装備され大阪湾口の防御の要と位置付けられていましたが、明治後期には要塞施設の存在意義が薄れ備砲は徐々に前線に移動されてしまいます。第一から第五まであった生石山の砲台の四つはその後廃止され、第四砲台のみが終戦時まで残されていました。 由良には対岸の和歌山や四国の鳴門要塞を管轄する要塞司令部が置かれ淡路島の中で最大の軍事拠点でした。要塞周辺は極秘とされ一般人の立ち入りは一切できなかったそうです。 砲側庫は土手を掘って煉瓦を積み上げた半地下式構造となっています。防御上の利点からでしょうか要塞施設にはこの形式が多いようです。 地面に残る円形は砲座の跡です。現在は土砂で埋まっていますが地面を掘り下げて砲が据え付けられていました。 ほとんどの砲側庫跡は壁が崩れ内部の原形を留めていない中、ここだけは当時の状態が確認できます。 砲台跡の傍に古い砲身が飾られています。この場所は固定砲台ではありませんが沿岸を望む保塁(大砲を据える陣地)だったといわれています。 結局、この由良要塞は一度も使用されること無く終戦を迎えます。全国各地に築かれた沿岸砲台は本土決戦の際にはその威力を発揮するはずでしたが、圧倒的な彼我の物量差の前にはほとんど戦力にならない時代遅れの産物だった様です。 各地に残る旧軍の遺構の中でも要塞施設は特に生々しい負の遺産ですが、戦争を風化させない意味で残されて然るべきものかもしれません。
by sunshine-works
| 2009-01-10 14:29
| 近代建築 兵庫県
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Comments(2)
こんにちは。赤レンガフェチのnobinekoです。淡路島の砲台跡を探していてたどり着きました。橋脚やトンネルに残る赤レンガ、たくさん見せていただいてうれしいです。また遊びに来ます。
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sunshine-works at 2014-09-06 17:52
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